トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第296号 


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もちださんの鎌倉リポート No.296(2018年3月1日)



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無名寺社紀行・14


 これは「横浜市史稿」所収の杉田東漸寺の古写真をもとにCG化したもの。本堂のまえにたつ「杉田の杉」は枯死して、現在は「永仁の鐘」などとともに本堂内に輪切りとなっておさめてある。本堂は覚園寺などと同様、中世末から江戸時代にかけて大幅に改修され、そのさいだいぶ「減築」されていた。こんにちでは鎌倉期の規模に復元されているが、もとはこんなささやかな堂だった。中央やや右に和尚がひとり、たっている。

 大正震災では鎌倉の仏堂のかなりの部分が倒壊した。いぜん紹介した日向薬師では、最近の修復前には軒がさがり、コンクリの電柱でつっかえ棒をしていたほど。減築はおそらく強度を保つための、苦肉の策だったのだろう。お城なんかでも、四国松山城や彦根城はずんぐりとして最上階がやや広いので、おそらく上部が減築されているものと思われる。お寺の塔なんかも、奈良・平安・鎌倉・室町と、100mクラスのものがいくつか試みられたが、地震や雷ですべて倒壊した。

 伊勢神宮のように基礎を地中深くに埋め込む方式も古来重んじられたが、掘っ立て基礎では腐りやすいという、別の欠点もあった。日本の風土においては、かりに石や煉瓦でできていたとしても、長くはもたなかっただろう。石にはまた、風化という問題もある。


 泉の井の前に立つ謎の碑は、改めて眺めてみても、ほとんど摩滅して読めない。ななめに陽が射す季節ならもっとよくみえるはずだが、いつ来てもハズレだ・・・(笑)。

 「松厳寺殿浄室心・・」とはだれかの戒名のようだが、該当する人物はみつからず、なお検討が必要。貴人の墓誌にしては安作りだから、なんらかの事蹟を記念した碑なのかもしれない。しかしまんなか附近ほど風化がひどく、周縁部にも残る字はかぎられている。肉眼では「江府(江戸)の人」だとか、「大樹(将軍)」「大相国に仕え」などという、意味ありげな文字が断片的にみえるばかり(読み違えでなければ)。

 後背地には「やぐら」も多く、中世の「浄光明寺敷地絵図」には若王寺(子)とあり、熊野権現社があったようだ。その隣に「東林寺」とあるのは、無住の「沙石集」にみえる地蔵をまつる寺だろう。そこはいま浄光明寺の墓地になっていて、いわゆる「アパート式やぐら」がある。このへんを新清水寺谷とよび、鉄の井の大観音をまつっていたなどの伝えもあるが、定かではない。


 「御伽衆」の項でちょっとふれた大石神社(横浜市緑区長津田)は、在原業平が死して化したというレンズ型の石を神体としてまつっている。このへんには縄文以来の信仰がある陽石とか石棒とかいわれるものをまつる所がいくつかあり、これは鏡石の類らしい。石棒なら艶福家(業平)にあやかった豊作祈願ということなのだろうが、鏡石なら「亡き人の面影を映す」(能「松山鏡」)などと、どこか風流だ。鏡石は天然にも産するので、あるいは銅鏡が発明されるずっと以前から玉造りのわざを応用、研磨によって作り出された人工の鏡石があったかもしれない。

 この霊石は旧鎌倉郡瀬谷村と争うことがあって奪ってきたとの伝えがある。都筑郡の郡域は流動的で、近世にもとなり町の成瀬村(旧多摩郡・東京都)と争った「原島さま」の言い伝えがある。各地の神社には、古代の磐座をまつるものもあり、しだいに祭祀が退化し、陰陽石(または鶴亀石)などと呼んで庭石に近づきつつあるものもある。しかし「奪ってきた」というからには、なんらかの霊験が期待されたのだろう。

 縄文というと東北のイメージがつよいが、都市化いぜんには東京近郊にも、あまたの巨大遺跡があったようだ。中国を理想として机上の空論をのべたてる儒教型歴史学を批判、実証的民俗学を専門とした近世の国学者が、江戸近郊の寺社を実地調査して、現在ではほとんど見ることができない御神体・御神宝のなかに、数多くの石棒などをスケッチしている。近世の寺院などでは、雷様の太鼓の撥(ばち)・あるいは雷斧などとして祭られていた。鈴石・石笛なんてものもあり、「神代=新石器時代」の記憶の名残りが、案外近くまでのこっていたのかもしれない。



三ノ宮比々多神社にあるストーン‐サークル
 神秘(オカルト)学に傾倒した平田篤胤などは、銚子あたりの神社にまつられた石を盗んで、天の磐笛などと名付け、大喜びで神代の遺物と信じた。

 縄文土器の形式には加曾利式(千葉)・勝坂式(神奈川)など、首都圏の大規模遺跡が標識になっているものもある。地域性はたしかにあるのだが、総体的にみて全国的にほぼ均一の文化が栄えたのは、太古から流通がさかんだったためだろう。保存食としての干し貝や石器用の石材はもちろん、土器のデザインから祭祀の方法にいたるまで、教えあっていたにちがいない。貧しい村や老人・身体障害者などは、革をなめし玉を磨くなどの特殊技術をみにつけ、高付加価値商品をつくることでのみ、生きてゆけた。

 交易の場所は霊地であり、遠くからでもみえる高い「山」がランドマークとされ、神奈備とされた。古語で山は「もり(杜)」とよばれた。東北ではいまも森というし、振(フリ)とか降(フル)とかなまったものはいまも全国各地にある。「あふり(阿夫利)」とか「あもる(雨降)」などとよばれた相模の大山なんかもその遺例だろうし、「古語は辺境にのこる」とする方言周圏論でいえば、アイヌの「ヌプリ」や九州の「背振」、朝鮮の「そしもり(seoulのルーツ)」などもそのひとつであったろう。「もり」は「ムラ」の語源でもあるという。



海老名市温故館にて
 町田市小山田にある考古館には巨大な石棒が展示してあるが、それは祭祀によって焼かれ、バラバラに砕けていたのを復元したもの。海老名市の温故館に、わかりやすい形をしたものが展示されていた。

 陽物祭祀はさまざまにかたちを転じ、とくに遊女屋などでは盛んにまつられたらしいが、浮世絵には巨大な陽物を引き回すまつりがごく普通にえがかれているし、いまもとある地方には、ちゃんと残っている。石棒が安産や豊饒を意味することを、形を変えながらも伝えてきたのだろう。助平なおやじが見せびらかす「あやしげな神社」のHなお守りといった、いわゆるセクハラ‐グッズというだけではないのだ。

 宮中では「卯杖」という柄のながい杓子になって、女性の尻を叩くことが「とはずがたり」にみえている。「とはずがたり」の二条は少女時代、それで天皇を叩いて叱られる。欧州でも安産の守護聖人のまつりに、バゲット(杖)型のパンで同様の行事がおこなわれる。また、鎌倉五霊神社の祭では、黒面(三番叟)が卯杖で参詣者の頭を撫でたりするが、これは「しやもじ」と「しはぶき(咳)」とが混同し、卯杖が咳の神(おしゃもじさま)に転化して無病息災をいみするものになったようだ。安産のほうは「はらみっと」という、例の面掛け行列に受け継がれているが、いまは行道するだけで、セクシーな「舞」の方はすっかり忘れられてしまった(レポ93参照)。


 「其の仏の本願の力は、名を聞き往生せんと欲せば皆な悉く彼の国に到ること、自ずから不退転に致す」と、「無量寿経」の破地獄の偈が彫られた胡桃谷やぐらの板碑(1288、国宝館蔵)。いまは撮影可の交流館に展示してある。

 胡桃谷にはかつて大楽寺という寺があり、大山に鉄不動をつくったことで名高い願行上人憲静(?-1295)の開基という。のち衰微して覚園寺境内にうつり、現在愛染堂として本堂かわりにつかっているのがそのなごり。売却された梵鐘1350は、厚木市依知地区の中依知浅間神社にうつされている(1549)。いま現地にはからっぽの「やぐら」がのこるのみだ。

 別願寺にある「伝足利持氏墓」の石造大宝塔など、ごく少数の例外をのぞいて街角で中世の遺物にであうことはほとんどない。「安全な場所に保管」ということじたいはいいことだが、厳重に秘匿されるあまり二度と展示されないというのであれば無意味だし、見えなければないのと同じだ。非公開の研究論文とか、専門家の心の中とかに秘められている内は、けして他人に理解されることはない。それに近年では、「真正の歴史」をかたづけて、うその「碑」や「銅像」を建てようとする動きも、世界的にたかまりつつある。


 日本の街角で大量にみかける韓国地蔵「トル‐ハラボジ(石の祖父)」。これらはもともと青銅器時代のモンゴル石人に由来するもので、中世になって蒙古民族の直接支配をうけた半島各地へとひろがった。

 モンゴル帽をかぶり、夫婦像もおおい。腹の上に両手を斜(はす)に置くのが一般的で、これが当時中国で「弥勒の化身」と考えられた布袋のポーズと錯誤されたためだろう、現地では「弥勒大仏」などとされるものもある。じっさい後世になって仏像ふうに削り直されているものも多く、むりやり手に説法印をむすばせ、北魏風の裳をきざんだりする。地面に平たく寝かされたレリーフ状の夫婦像は「寝仏」などといわれている。いずれにせよモンゴル石人そのもので、仏像ではない。

 問題は、かつて日本の「知識人」から、飛鳥時代の珍石「猿石」に似ているなどという誤った評価をうけ、「韓国超古代文明を立証」「日韓友好のシンボル」などと短絡して、日本にも多くの【レプリカ】が一方的に生産されてきたことだ。似非学者たちによる交流史の捏造も、おそらくは善意のつもりなのだろう。しかしこれらはモンゴル帝国による植民地支配のモニュメント以上のものではない。つまり誇るべきものですらないのだ。

 韓国には、日清戦争に便乗し国内の清国人を【浄化】した記念碑「独立門」ものこされている。現地の学者は「日本から独立した門」などと、時代錯誤の「とりつくろい」を頑迷に口走る。戦前戦後のアジア主義は、とるにたりない奇妙な排泄物ばかりを、数多く残してきたのだ。


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