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もちださんの鎌倉リポート No.297(2018年3月7日)



No.296
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泣坂


 横浜市郊外にある「泣坂」の伝説は、いぜん朝日新聞の地方版に連載された「ときめき坂めぐり」にもとりあげられ、ちょっとした神霊スポットとなっている。場所は横浜市緑区十日市場の北門(ぼっかど)地区、というよりはGoogleMapなどで横浜線十日市場駅を西にたどると、東名高速との交差左下、土手に囲まれたごく狭い場所なので、すぐに見つかる。写真の新道から稲荷の先で右折し、S字にのぼるのがかつてのいわゆる「泣坂」。

 むかしここのへんに刑場があり、罪人が泣きながら登った。いまは「泣き声」ではなく「お化け踏切」のレトロな警鐘がきこえてくる。その泣坂上から少しわき道に入り、上の原団地の左、町界になっている崖沿いの道を南西方向にさらにのぼると公園があり、頂上に餅塚という塚がある。ここがかつての刑場で、餅塚は開拓を拒む祟りの場所とされた。いぜんはここが鎌倉古道だったといい、婆あが旅人に餅を売っていた。ただ、その婆あが、とくべつ「霊」や「祟り」に関係しているわけではないらしい。・・・



北門地蔵と墓地(上)・北門踏切と果樹林(下)
 あまり知られていないが、S字にのぼる泣坂旧道の外側には、もう一段ふるい古道があって、北門村の刻銘をきざむ石地蔵のある祠と集合墓地がある。現在は行き止まりで、泣坂上には出られなくなっているが、頂上の墓地には中世の板碑なんかも活けてある。右側は農家の果樹林で、木々のむこうに農道専用の「お化け踏み切り」が、電車の通るたびに人知れず鳴っている。この「北門踏切」は一般道から入る道はなく、線路の土手下から野良道を登りなおすか、いぶき野住宅地のはしっこにある廃物業者の敷地のわきからたどり着くかしかない。夏場にはその小道も、雑草にうもれてたりする。

 この「お化け踏み切り」を中心とした周辺には、古墳群(北門古墳群)があった。かつて農民が畑などから、いくつかの石室や刀などの遺物をみつけており、専門業者の発掘調査では、近年さらに多くの古墳が確認された。踏み切りの向うの調査済みの箇所は、すでに廃物業者の敷地になっているが、手前の果樹林側にも、まだいくつかの石室が埋もれているという。


 たぶん「泣坂」のゆらいは、太古から村の境界にいとなまれた【墓地】だったのだろう。もちろん葬送の地には、無縁が葬られる風葬の場所や、中世の刑場が附属することも、あったのかもしれない。鎌倉の六地蔵にある「飢渇(けかち)畠」とか「和田塚」のような場所は、じつは各地にあって無縁墓地をさしていることが多い。作物がそだたないとか、作物が血の色をしているとかいった「祟り」は、開拓にたいする強いタブーをあらわしている。

 村の辺縁に墓地をおくことは、外敵や魔の侵入にそなえる結界、という意味もあった。横浜市営地下鉄センター北にある大塚遺跡(弥生時代)の、復元集落入り口ちかくにある歳勝土遺跡も群集墓だし、鎌倉の入り口である切り通しや境界にあたる稜線にも、周知のように「やぐら」がつくられている。墓の代わりに、「道切り勧請縄」や「踏まずの石」などの厭物を置くこともあった。同様の習慣は世界各地にある。

 北門古墳群には鎌倉の和田塚同様、一基だけ大量の埴輪をならべたものがあり、数体の人物埴輪片は西側の裾に多くのこっていた。下の写真の古墳、墳丘下側の溝で削られた部分だ(埴輪の頁では上下が逆)。



「横浜市緑区北門古墳群」盤古堂2007より
 形象埴輪をもちいる祭祀儀礼は基本的に畿内色の強いもので、これも小古墳ながらヤマト政権から直接流されてきた者の墓なのかもしれない。これは都で罪を犯したスサノヲやヤマトタケルが辺境にながされ、国づくりにはげんだ神話を思い起こさせる。古墳時代の地方豪族と天皇家との関わりを極力無視・否定し、地域政権の自然発生を強調しようというキャンペーンもあるが、畿内と地方の「古墳」における濃密な均質性を否定し去ることはできない。

 神話というのは、ただ「太古にこういうことがあった」ということではない。それは伝説・物語の定型・ひな型を示しているのだ。貴種流離譚(英雄仮死神話)はスサノヲやヤマトタケルに限ったことではなく、イザナギの黄泉下りや大国主、海幸山幸、神武天皇など、みなそのパターンのくりかえし。義経や正成、くだっては竜馬や西郷にいたるまで、みな日本人の心情をとらえてきた。

 じっさい律令制の国司や中世の地方武士団のように、中央から地方にむかった者は古墳時代にもすくなくなかったであろう。スサノヲやタケルに相当する人物は無数にいたわけで、かれらがどの時代の誰にあたるのか、かれらの事績がどれだけ厳密に証明されるのか、なんてことはさして問題ではない。神話から類推されるのはあくまで断片化された、名も無き不完全な史実の堆積でしかないからだ。


 「餅塚」は八王子街道(神奈川往還)沿いをすこし離れた、上の原団地の頂ちかく、町界の崖のいちばん高い場所に位置している。崖下には東名高速の造成で細長く剥ぎとられたようになった十日市場町北門地区が存在し、崖上は長津田みなみ台・いぶき野、すなわち旧長津田村下長津田地区にあたる。長津田は古河公方領だったこともあり、また下長津田には北条高時に殉じた「権守源信基」なるものの子孫がすんでいたという(レポ219)。

 餅塚の性格は不明。かつてはこんな「敵味方・無縁一切之霊」云々といった、おどろおどろしい文字を刻んだ石碑ではなく、祠があったという。中世には村境いの見晴らしのいい高所に、修験者などが十三塚や入定塚、あるいは富士塚などの祭壇を築くことがあった(レポ254参照)。鎌倉界隈でも、田谷の洞窟の山上に十三塚が残っていると聞いたことがあるが、今はどうだろうか。

 鎌倉古道という伝承にしても、たしかなことはわからない。その説では鶴ヶ峰から梅田谷戸・霧が丘を経由したとするが、造成によって今は辿れない部分が多い。「鎌倉古道」はまた別にいくつかあるとされ、新治町と十日市場町の境界をとおったともいう。そこには弘安の板碑(十日市場阿弥陀堂墓地)や、鎌倉武士が切腹したとかいう「かんかな(かんかん穴)」がある。



「都筑・橘樹地域史研究」2012より
 十日市場駅の東をくだったところに宝帒寺踏み切りがあり、ちかくに同名の古寺がある。宝帒寺墓地や近傍の屋敷墓にもなおいくつかの板碑が分布するが、寺の東の旧寺地(寺原)の尽きたところの段丘斜面に、かつて古墳時代の横穴墓があってふるい五輪塔が収めてあった。中世に転用やぐらとして再利用されたらしい。

 いま宝帒寺にある凝灰岩製の塔片はボロボロのすがただ。比較的原状を保つ右塔地輪の各面には、追刻とおぼしき「×(箇)(村)」「諸子・孝(子)・敬白」「×(暦)×」などと読める銘文もある。ある時期まで祭祀がおこなわれたらしいのだが、「風土記稿」1841によれば、やがて入り口がうまってしまったようなのだ。図書館でしらべてみると、発掘当時の石塔はかなり原型をとどめていたようだが、右の写真を掲載した「地元郷土史家」の研究論文には、なぜか銘文等の記述はない。

 「かんかん穴」とは、石を放ると音がするという意味らしい。じっさい多摩丘陵にはおびただしく分布する横穴古墳のことで、ちかくの遺跡では、荏子田の家型横穴もそうよばれていたし、鴨居・殿谷戸では地名から城があったとされ、戦乱のさいの殿様の隠れ穴とか殿様の墓などとする、同趣の伝えもあったようだ。「風土記稿」には嶽窟、とも書かれている。



発心門・修行門・菩提門
 さらに東寄りの「鎌倉古道」には念珠坂と名がついた場所もある。宅間上杉の榎下城跡に続いていたから、おそらくこれも古道。いま公園になっているあたりにもかつて、横穴墓群があった。子供のころ地元の親戚に連れて行ってもらい、発掘時の写真もとったはずなのだが、みつからない。園内にまだいくつかの墓が、川原石の封がついたまま、埋め戻されていると思う。

 造成前には、その坂の近くにも塚のような場所があり、地蔵堂がたっていた。まだ真新しくみえる分厚いヒノキの奉納札に、戦前の曽祖父の名前があるのを叔父がみつけた。ヒノキはいつまで経っても「あたらしい」ままらしい。板碑片とか、出羽三山講の碑、無縁墓なんかもあったと思う。坂の木々に大量のメジロがたかっていた。どこかの農家がまだ飼っていた牛の声も聞いたように思う。

 ちかくには前方後円墳とか、縄文土器が散乱する畑などもあった。そういうのは造成によって、ほとんどなくなってしまったのだが、「念珠坂」や「餅塚」はようやく最近になって、【緑区遺産】などとして区のHPに載せられた。・・・どんな【遺産】かは知らないけれど。


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