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もちださんの鎌倉リポート No.299(2018年3月21日)



No.298
No.300



江戸の旅人たち―観光のはじまり・6―



浄光明寺客殿
 「相模志料」におさめられた仁木充長の「藤沢記」1723「海人のすさび」1727は、京都の冷泉為綱・為久・為村、三代の秘書をつとめた武士の記録。中世の大歌人・藤原定家の遺産をつぐ家は、当時すでに上冷泉家のみとなっていた。仁木の詳細は不明ながら、没落した足利一門の名族の末と思われ、京都では貴重な「冷泉家文庫の書籍」の整理・調査も任されたほどの古参の門人、というより信頼のおける老臣だったようだ。

 冷泉家は武家伝奏として将軍家と朝廷とのあいだを取り持ったため、いつしか仁木も処士ながら江戸小石川にすむようになった。「藤沢記」は生前の為綱が江戸参府ちゅう、弟子の求めにより、義経塚でしられる藤沢・白旗神社への法楽和歌に奉加していたための代参。当時「八王子権現」として祭られていた弁慶塚の記述もあるが、伝承の核心については「神威の恐れあれば」と、ざんねんながらはぐらかしている(レポ127参照)。

 また「海人のすさび」は鎌倉・浄光明寺における冷泉為相四百回忌の代参をつとめたさいの記録。鶴ヶ岡の社司の協力によりささやかに挙行したものだが、江戸冷泉流の歌人も和歌をとどけており、田沼意行など将軍吉宗の側近の作も多く混じっていた。仁木充長は和歌披講のほか、宮中伝来の朗詠まで披露、諸芸にすぐれていたようだ。


 鎌倉周辺では二度とも、月影谷・比企谷・藤谷・青葉楓など阿仏・為相母子の遺跡を中心に観光。現存する伝為相の墓は冷泉門の歌人でもあった水戸黄門が整備したとされるが、ここでは「九重石塔」と書かれているのが、なんとも気になる。ただ、為相が鎌倉で薨去したことについては、当時の冷泉家でも確信していたらしい。仁木は墓石にくっついた苔を包み、「拾遺公(*侍従為村)」に贈った。為村(16)はやがて冷泉中興の祖といわれたほどの歌人だから、若くして先祖為相を熱烈に崇敬していたのだろう。

 雪の下の宿は頼朝の時代、「鶴が岡の八乙女・松の尾何某」とよばれた家筋の者で、香道を得意にしていたという。月影谷では旧家「岩沢の何某が家に入り、火取を借りて香を炷(た)き、御代拝」。「かの禅尼の持仏堂の地蔵薩埵、定朝作とて道端の草庵に安置せし」というのは、のちに極楽寺の奥に移築し現存する月影地蔵堂のことらしい。

 とりわけ出色なのは「海人のすさび」に書かれた森戸明神でのアシカの目撃記述。「波の中に漂ひ、長き物を問へば、「あしかといふものなり」と答ふ。所により「とど」とも云へり」云々。もちろん近世の雑な記述だから、いぜん「タマちゃん」と騒がれた例の漂流アザラシかもしれないし、くわしいことは分からないのだが、江戸期には鎌倉周辺に海獣が頻繁にみられたと想像すると楽しい。



司馬江漢「相州鎌倉七里浜図」より
 司馬江漢(1747-1818)が晩年、円覚寺中興・大用国師誠拙周樗(1745-1820)の弟子となりやがて成仏した、という嘘の発表をしたことはよくしられている。ただ、鎌倉近辺の絵はいくつかのこっている。

 杉田玄白(1733-1817。号・子鳳、元伯)にも鎌倉図巻があったことは、津村淙庵「片玉集」におさめられた「豆相紀行」1795によってしられる。これは詞書きだけが採録してあるのだが、文章を書いた清水長年の記述には「小浜の侍医・田子鳳」「子鳳画に善し。其の経歴する所の処、必ず之を毛端に発して殆んど軸を成すに至る」などとみえ、勗斎邨成の跋文にも「余の友・田子鳳、刀圭(*医術)の暇に山川を游歴し、勝に値うや輙く図し、観る者をして爽然と其の境に入るが如くせしむ。噫(ああ)、亦た奇と謂うべし」と、その画才を高く評価している。

 行程は熱海・伊豆韮山・江の島鎌倉で、同行は官医・儒者・書家など十二人。玄白自身の識語には、清水が「其の行を記し、僕其の勝を図して、家に帰り其の業を共に成し、合わせて二軸と為さん」という約束だったが、鎌倉ぶぶんは連日の雨で、清水ら主なメンバーはあいにく宿にこもってしまった。詞書きには、当時鶴ヶ岡裏山にひらかれた「狻踞峰」と称する展望台の見物ていどしか載っておらず、数人と別行動をとった玄白(67)の動向をくわしく知ることはできない。ざんねんながら玄白日記にも、この年五月の分はのこっていないようだ。



(横浜市・里山ガーデンにて)
○ 坂本(*坂ノ下)の郷にて帋鳶揚ぐるこそ、江都に目慣れぬ事にてありぬ。
 浦風やのぼり過ぎたるいかのぼり     団斎
この辺り、大やう牛に鞍置きて乗り、おちこちの落ちてもよし。鄙の風流とやいわむ。
 むせ返る藜(あかざ)や牛の回り道   簔人

 紀行句集「六浦笠」1737を編んだ半路観団斎は、蕪村の若い頃に活躍した人らしいがよくわからない。句もいたって凡庸だ。いかのぼり(紙鳶)とは凧(たこ)のことで、いま相模の大凧として座間・相模原の川辺に民俗芸能としてのこっている。五月節句の行事としては、玉置香風の「東行日記・笠やどり」1783に、鎌倉の句として「なつかしき昔や里の紙のぼり」とみえるのは、鯉幟の原型のことだろう。ふるくは合戦の軍旗をまねたものや、鍾馗などの武者絵を描いた旗もあったらしく、句の心は、頼朝の「昔」と、いかにも田舎っぽい、レトロな幟の懐かしさとを掛けているのだろう。

 牛に乗る風習といえば、戦国の高僧・印融法印が牛の上で「ながら読書」する肖像がしられる。農村では牛糞が咎められることもなかったようだ。いまはとてもじゃないが「風流」などというひとはいないだろう。



(川崎市・法雲寺)
 旅行に用いたのは主に馬だが、「安き戻り馬有りてうち乗りたる当座はああ、楽やと思へども、後は尻が痛む故、乗り懸け(*荷鞍付き)を望む。また乗り懸けはいかふ楽なれども、眠りがつきて心に油断がならねば、また駕籠を望む。世は皆かくの如く、高きも賤しきも、望みは尽きぬものにて」云々と、あまり評判はよくなかった(大曾根佐兵衛「東海道駅路乃鈴」1709)。

 古くは馬に蹄鉄をつける習慣がなく、近世の道が土なのはおもにこのためだが、急坂などでは馬の足を労わるひつようがあった。「下り坂にかかれば桃尻の落ちやせんと恐ろしく、荷鞍にしかと取り付き行く。・・・さらぬだに眠気付きたるを馬に揺られ・・・」(原正興玉匣両温泉路記1839)。この筆者は武士だったと思れるが、乗馬は苦手だったようだ。

 橋本治さんの読者なら常識かもしれないが、桃尻とは乗馬用語で不安定な尻をいうらしい。ふるくからある言葉らしく、「徒然草」の笑い話にも、説教師になろうとした者が、芸がなければ将来人気がでない、桃尻のためお迎えの馬に乗れないと将来困る、というのでまず早歌や乗馬に励むうちに、けっきょく何にもなれず、歳をとってしまったとか。


○ 原宿、この辺りより藤沢までの並木は杉なり。左の方に人家白壁など遠く見ゆる。男、「あれは何事ぞ」と問ふ。駕籠の者、「あれこそ松平右衛門大夫正綱(*1576-1648)の次男、備前守隆綱(*1621-1693。正信とも)の居所・玉縄にて候」。男、「扨はこれも鎌倉の内にて、昔の藤九郎盛長が屋敷の跡か」。風也聞きて、「いやそれは・・・甘縄・・・」。

 これも「東海道駅路乃鈴」の一節だが、じつは上方でこの書が刊行された六年前には、既に転封のうえ玉縄二万石は廃藩になっている。松平正綱はもと大河内氏で、家康の信任ふかく松平一支流の名跡を継いでおり、猶子(甥)に智恵伊豆こと信綱を輩出した。ふるくは大河内氏は三河吉良家の臣だったといい、秀吉時代には「朝鮮物語」を書いた秀元などがでた。その秀元も、大坂夏の陣の時点では三河出身の井伊家に属していたという。

 隆綱は寛文の八幡宮修造奉行にもかかわっていたから、こうした近在の有力領主の転出は、その後の鎌倉の自立、観光都市化に大きく影響したものと思われる。江戸期の玉縄城は廃城のうえ采地陣屋レベルに縮小したものだったと思われるが、政庁などの詳細はわかっていない。八幡宮はその後も全焼しており、隆綱時代の痕跡は石段下の狛犬(下写真)など、わずかだ。



ベビー‐カーの番人
 「浴湯紀游」1802を書いた成島司直(もとなお)は、「徳川実紀」を編んだエリート幕臣。たまたま休みをもらい熱海・鎌倉をたずねた。司直は金沢から森戸へ行こうとして道に迷う。「松杉深邃にして日亦た虞淵に迫る。唯だ深樹中に鏗鏘の声有るを聞く。之を視れば則ち山商、巌石を鑿削す。仰ぎて之に就いて路を問うに云く、是れ鎌倉の捷径にして守土を距つること遠く甚だし、と」。

 司直(35)が間違えた鎌倉の近道、というのは朝比奈切り通し付近のことであろう。森戸は葉山だから、まったく道がちがっていた。「巌石を鑿削」というのは近世におこなわれた石切のことらしい。司直も学者らしく、江の島などの俗化を嫌った。大山では西尾根を経由する地味な簔毛口からのぼって、「行客殆んど少なく風景絶勝」と好評価。にぎやかな伊勢原口しか知らず俗化を嘆く文化人(士人・賈客)たちをあざ笑った。いまなら小町通りなんてぜったい行かないタイプだ。

 ただ、建長寺「北条時頼像」には、異常に感動している。「夫れ北条氏の九世、鎌倉に竊権するや兼ねて内外に制し、主を幽し民を虐ぐること、為さざる所無し。独り時頼、謹厳にして法度有り、四方に偏歴して民の疾苦を除く。・・・既に去るの後、其の容貌温良たるを思う。造次(すぐ)に遺像を忘るる能わざること、尚かくのごとし。宜(むべ)なる哉、百姓愛して諼(わす)るること弗し」。この像は風入れの日にすぐ間近で鑑賞できる。


No.298
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