トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第30号 


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もちださんの鎌倉リポート No.30(2008年4月20日)



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流されびと・3



朝靄が作る光の糸。(元日、衣張山から)。
 木曾義仲の刺客となって頼朝の命を狙った女房・唐糸は、正体がばれて土牢にとじこめられてしまう。国許にいた12歳の少女・万寿姫は、母をさがして鎌倉に旅立つ。御所に仕え、唐糸の土牢をさがしあて、ついに再会を果たすものの、格子のむこうの母を救いだすことはできない。そのころ、頼朝の身辺にふしぎな出来事があり、八幡宮に十二人の乙女による今様を奉納することになった。13になった万寿姫はその舞台に立ち、みごとな舞をひろうする。陶酔した頼朝も、われを忘れて舞いはじめる・・・。

 「御伽草子」のひとつ「唐糸草紙」、一名「万寿姫物語」は、室町時代に作られたジュブナイル(児童図書 juvenile)の佳作として知られる。唐糸の父は木曾義仲の侍・手塚太郎光盛だという。万寿姫の父は書かれていない。1193年に甲斐の安田義資というものが頼朝の女官に密書をつうじて死刑になった、などの記録から、頼朝暗殺のようなことは全くなかったとは言えないらしい。

 「源氏物語」以降、擬古物語の名で分類されている宮廷女流文学は、惨々たる失敗作をへて頽廃していった(「鎌倉時代物語集成」など)。御伽草子は、唱導や芸能などを通じてひろまった口承伝説(昔話)や長編小説の梗概などを素材に、物語が子女教育のための絵本、すなわち安定した商品として再生してゆく中で生まれた。南北朝から室町末期にかけての短編小説が御伽草子の名で一括されたのは江戸中期のことという。

 没落貴族のような者が内職に書写したり、のちには版本となってひろまり、公家社会の姫君だけでなく、武家階級、長者や豪商のむすめなども読めるようになっていたらしい。絵には奈良絵本のような極彩色のものもあれば白黒、赤や緑で雑に色をつけたいわゆる丹緑本などがあって、それぞれの階級に合った商品が広まっていたことがわかる。




初日が街の谷々をてらしだすころ、かすみが晴れて富士山が。
 土牢伝説のヒントになったのは、鎌倉に分布する「やぐら」であったにちがいない。1680年、「鎌倉記」を書いた自住軒というひとは「鎌倉中の山際はみな一色、洞穴なり。・・・ただ鎌倉を穴ぐら山と言ひ換へたらましかば、と可笑し」といっている。近世まで座禅窟などとして利用されているやぐらも多数あったらしいが、一般には古人の倉庫とか室屋とおもわれていた。一説には鎌倉幕府の滅亡期、天のさとしとしてなんども火の雨が降ったので、ひとびとが防空壕として掘ったにちがいないという口承もあった。

 小田切日新の「東海紀行」1859にも「鎌倉の旧蹟、ただ窟のみ」などといい、適当な窟(いわや)を著名な史跡のように言っているにすぎないと疑っている。そもそも、唐糸や景清・人丸姫などはみな小説の主人公なのだから、まともな史跡などあるはずもない。しかしすでに水戸黄門の探訪時点(1674)には唐糸やぐら、人丸塚、御馬冷場などの古跡はたしかに存在していた。

 唐糸やぐらには諸説あって、光圀がみたのは景清窟より海蔵寺寄りにあった別名「尻ヒキやぐら」「へひりやぐら」(現存せず)がそれだ、としている。万寿姫がさがしだした「御所の裏手」という場所を、おそらく「亀谷二位禅尼(頼嗣将軍の母)の尼屋敷跡」という伝承地にむすびつけたものらしい。この禅尼を「政子」のことと混同する誤解がふるくからあったためだ。「尻ヒキ」とは束帯装束の尻尾のようなもの(下襲の裾<したがさねのしり>)をいったもののようだが、どんなかたちのやぐらだったのか、いまでは知るすべもない。

 自住軒が伝えている場所は「西御門」あたりだという。ただ法華堂(いまの頼朝墓の下)の東のほうというから、いま東御門で「義時窟」とかいっている横穴墓のようなやぐらがそう呼ばれていた可能性がある。このばあいの「御所」は頼朝邸(大倉幕府)跡ということなのだろう。


大蔵、東御門。中央の尾根(大倉山)に頼朝墓・義時法華堂跡があり、そのまえが大蔵幕府(頼朝邸)跡。



釈迦堂トンネルの南側にある洋館の屋根。
 「山東遊覧志」1775や「相中紀行(明甫著)」1797には釈迦堂ヶ谷の南に「唐糸が土の篭(ろう)」があり、なかに石塔が多数あるといっている。「新編相模国風土記稿」なども同じで、これが現在いうところの「唐糸やぐら」にあたっている。衣張山西尾根やぐら群とか釈迦堂トンネル東やぐら群とかいうもののなかにあるがらんどうの窟だ。大町側にある「国際自動車KK名越山荘(旧ハンス・シュリーブス邸)」のうらにあたり、かなり以前にはときどき私道が開放されていて、そこから上がることができた(※いまは事前の申し込みがいるらしい)。

 現在の釈迦堂トンネルの上に江戸時代まで「小切通」というのがあり、いまは私有地ということで釈迦堂ヶ谷奥からも、犬懸ヶ谷からものぼれないが、名越をとおって三浦に通じていた。現在の登山道「平成巡礼道」よりも西、通称「ロベール坂」よりも北の道である。釈迦堂と犬懸を隔つ尾根のうえには木戸があったことも発掘調査でわかった。「唐糸やぐら」や「日月やぐら」などのやぐら群はこの小切通し周辺の切岸面に分布している。

 このばあいの「御所」は、名越山荘のところにあったという伝・北条時政名越邸跡ということになる。だが異説もある。背後を通る小切通しは古書にいう「犬懸坂(別名・三浦道)」にあたるため、西御門や杉本などに住んでいた三浦一族が本貫地とのあいだを往来していた要衝で、その真下となると、いわば砦のような、たいへん危険な場所にあたる。・・・それにむすめの政子が出産のために滞在したのは名越の浜御所、高御蔵ともいうのでおそらく材木座・弁ヶ谷のあたりだ。


釈迦堂トンネル。



頼朝(東京国立博物館蔵・頼朝像よりCG復元)。原像は白幡社に伝わったものとされ、もっとも面影をつたえるという。
 それにしても、暗殺者の遺跡がこれだけ分布しているのも興味深いことではないだろうか。義経、景清、清水冠者義高、曽我兄弟、・・・頼朝はすでに現世の運を使い果たしたものか、説話の世界ではみにくい独裁者にすぎなくなっていた。

 童話とはいっても、現代のように大人の理想を押し付ける無害化(?)した「えほん」とは根本的なちがいがある。かつて子供は半分「神の領域」にいるとかんがえられた。だからこそ大人社会のうそは通用せず、「王様ははだか」などという深刻な告発がなされたのだ。アナーキズム(無政府主義)や自由主義の吹き荒れた中世において、鎌倉はいわば「小さな政府(⇔律令政府「大きな政府」)」にほかならなかったとはいえ、ひとびとの心は成功したかれよりも、むしろかれに追われた流人たちに向けられていた。



次回は「預言者たち1・2」の予定です。


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