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もちださんの鎌倉リポート No.300(2018年3月28日)



No.299
No.301



江戸の旅人たち―観光のはじまり・7―



金沢の入り海跡
 「椿亭叢書」にある「走湯行記(浦の塩かひ)」1702は、【金沢八景の和歌】をつくった京極高門(1658-1721)の紀行文。走湯とは目的地・熱海のことだが、鎌倉近辺のことが半ばを占めている。「能化堂に登りて眺望す。唐僧心越禅師の詩有り。予もまたその趣きにて和歌を詠ぜし事侍りし」と、そのあいだの事情をのべている。

 京極氏は佐々木信綱の末、南北朝には京極高氏(=佐々木道誉)がでて、桃山時代には京極高次が知られる。本家は最終的に大石垣で名高い讃岐丸亀城におちつくが、高門のでたのは支流で、兄・高盛は丹後舞鶴から但馬豊岡藩主におちついた。高門はさらにその分家となり、糸井(兵庫県朝来市)に采地陣屋を築き二千石を分与される。子孫は幕府旗本として活躍、幕末の高朗は文久の遣欧使節の目付など、要職を歴任した。高門本人は「煙霞病客」と自称、病弱でおもに江戸屋敷ですごしたらしいのだが、公家に学んで堂上歌壇では知られた存在だったらしい。



公方屋敷跡附近
 高門は前回の旅(「湯沢紀行」1684)でも病気うんぬん、母の介護云々と出発をためらい、ようやく幕府に休暇を願い箱根塔ノ沢へ湯治にでかけても、旅先で寝込むことがあったので、二十代からすでに実務向きの人間ではなかったようだ。不自由なお忍び旅行である上に、今回は母の喪中で鳥居をくぐれなかった高門(45)も、何度か鎌倉に来たことはあるらしく、初めての家臣が江の島に行きたがるのをこころよく許して、龍口寺あたりで待った。私歌集「曲妙集」によれば、すくなくともこの後さらに二度ほど、温泉帰りに鎌倉をたずねている(1710、1720)。

 旅先ではいくらか和歌や漢詩を詠み、考証をつづっている。たとえば浄明寺の「公方屋敷跡」が高見が谷という地名で、鎌倉期には先祖・佐々木氏邸であったとの説(御馬冷場からの連想か)。八幡宮の宝物殿(廻廊)まえにある摂社・武内社は、じつは高良社と祭神が入れ替わっているとの説、見輿が嶽は腰越であるなどの異説も紹介。能見堂では筆捨松伝説のルーツとして、「一将功成」の詩で知られる晩唐の詩人・曹松のつぎのような詩句があるとの説を披露している。
 ・・・月は将に河漢(*天の川)に巌の転ずるを分けんとし、 
 僧は龍蛇と与(とも)に窟の眠りを共にす。
 直(ただ)にして是れ画工も須らく筆を閣(お)くべし、
 況や名画の流伝すべくも無からん。  (「霍山」より)


 鎌倉では知人の和尚がいた円覚寺などの塔頭に泊っているが、大勢の伴人たちはどうしていたのだろうか。宿泊時の用心棒として「予が手飼いの陣(狆=ちん)の狗子(ゑのこ)」も連れてきたところ、見たこともない大仏に驚いて、はげしく吠えた。そんな世間知らずの愛犬に、大名そだちの過保護な自分を重ねあわせて、苦笑したようだ。

 藤沢で面会した金井宗禎(与伯1613-1705)・宗栄(与通 ?- 1718)父子は、古今伝授まで学んだほどのアマチュア歌人。宿場でも一二の旧家で、一族ゆかりの金砂山観音堂(鼻黒稲荷・レポ132)なども今にのこっている。かなりコアな文学マニアだったと思われ、前回紹介した仁木充長の「藤沢記」1723で、かねて冷泉為綱(1664-1722)に奉納和歌を懇望したというのも、おそらく為綱の門人であった生前の宗栄ら、在地の文学サークルがかかわっていたものと推察される。

 先祖は四郎豊後守守清(1524-1610)などとなのり、遊行寺の大檀越。また北条氏直(1591没)の御落胤(1600生)を婿養子にむかえたという金井宗斉法橋昌与も「相模藤沢住人」となのっているから、相当古くからの有徳人で小田原後北条家にぞくした関東武士(金井氏)の末流であったのかもしれない。ただし御落胤云々は生没年の齟齬からみて架空の伝承らしく、数々の堂上歌人との交流のなかで、過去に武士であった記憶が過大にふくらんでいったのではないだろうか(なお、北条氏直の子孫は河内狭山藩主として公式に存続した)。


 さて、金沢八景の詩歌は、現存する心越・高門のもの以前にもあったらしい(レポ244参照)。ただ、心越禅師が金沢の地名を詩題に織り込む(1694)まえには、瀟湘八景の詩題がそのまま使われていたようだ。京都で出版された宮川道達・編「瀟湘八景」1688には、宋元時代さかんに詩に詠まれ、宋廸・玉礀らの名画にもえがかれた元々の「瀟湘八景」とされる詩や、その詩題にもとづいた冷泉為相・京極為兼・頓阿以下、内外の古詩古歌があつめられ、各地に八景が制定される以前の状況をつたえている。

 唐土の八景題を転用しただけの初期のご当地八景は、「金沢の地景の事」1614のほかにも、近江八景(滋賀)・市原八景(京都郊外)など、数多い。江戸城初代天守閣などを長歌に詠み込んだ「徳永種久紀行(上下紀行)」1617には、江戸の町全体を瀟湘八景の詩題に当てはめている。「・・・神田の宮に参りつつ 四方の景色を眺むれば 何の心は知らねども およそ八景の心あり・・・さてまた西の溜池(*赤坂溜池)に まだ秋ならぬ夕暮に 月仄々と見ゑければ 水にちかき楼台は 先づその影を得るなり これ洞庭の秋の月(後略)」。

 高門の時代には、現地の地名を織り込んだご当地八景も、もはやありふれたものになっていた。高門自身、熱海八景とか江の島十二景などを詠んでいる。それでも心越詩・高門和歌の「金沢八景」ばかりが定着し、ひろく知られたのは、屈指の観光名所・能見堂に「永く掲げられていた」ためなのだろう。能見堂は旗本出身の大名・久世広之が領主時代に復興したとつたえるが、転封をかさねるうち師檀関係は薄れてしまったため、観光名所としての生き残りに賭け、かれらの詩歌を看板としていたようだ。金沢の潟はやがて埋め立てがすすみ、能見堂の風光は悪化するので、詩歌からかつての眺望を偲んだのかもしれない。



二通りの詩(宮川道達の編著より)
 一方、飛石金龍院で頒布していた「西湖八景」なる冊子には、べつの詩歌を採用していた。前述の道達編「瀟湘八景」にも採録された、旧来の古詩古歌(左写真・上段)だ。もちろんこれは唐土の八景を題に詠んだものだし、冊子名からして西湖十景と混同している。おそらく飛石から見た瀬戸橋が、杭州臨安府の傍らにある西湖という池を分かつ蘇堤に似ているという説があったためだが、能見堂との差別化を図りたい対抗心もあったのだろう。

 この古詩古歌のうち、古歌は冷泉為相の作、古詩(a)は玉礀作といわれているが、東山御物「八幅の讃」として知られた玉礀の「瀟湘八景」詩(b)とは全くべつのものだ(たとえば瀟湘夜雨の冒頭はa「先自空江易断魂・・・」b「古渡沙平漲水痕・・・」)。もちろん文人画家として知られた玉礀が、注文をうけてもう一度べつの詩を詠んだのかも知れないが、南宋時代の玉礀には瑩玉礀・芬玉礀など数名おり、日本で有名なのはどちらなのかも、実はよくわかっていない。つまり、別の玉礀という可能性もある。

 「西湖八景」系統の古詩古歌抄の初出は、室町から天正にかけての古写本であるらしいが、多くは作者名がない。なかには和歌を「読人不知(或云定家)」などと注記するものもあり、「待需抄」に引用された「八景次第異同」には、詩の作者を「東坡(或は玉礀)」としている。また鶯宿雑記巻137によれば、「夢相(窓)国師」と冷泉為相の合作ではないかとの推測もあったという。この古詩(a)は近代になって、アメリカの大詩人エズラ・パウンド(Ezra Pound)が日本から得た折帖にもとづき、代表作「The Cantos」に引用したことで中国人学者も関心をよせているが、作者についてはなんの手がかりもつかめていない。



小学館「原色日本の美術 29」より
 伝・玉礀や伝・牧谿が描いた「八景図」の画幅は、いまも日本に部分的に残っている。伝というのは、そもそも中国などに確実な実物がないため、写しや弟子等の模倣作である蓋然性が厳密には排除できないという意味。玉礀(下)のは破墨も荒々しく、牧谿(上)のは独自の朦朧体(罔両画)をこらしているが、いずれも湖南省洞庭湖ふきんの、これといって何の変哲もない、もの寂しい山村の風景だ。

 風景は画家ごとに異なっていて、そもそも写実というわけではないらしい。遠征に失敗してこの地で死んだ太古の王・舜を慕い、これまで后妃としてたびたび舜を助けてきた娥皇・女英(*尭の娘)が、湘江に身を投げた。姉妹の涙の痕は、やがて斑竹となって、いつまでものこった・・・そんな哀話が、その鄙びた風景にかさねられていただけだ。

 湘南の語源である「湘」という文字は、そもそも相模の「相」を地名らしくみせる単なる雅字であったと思われ、中世以来鎌倉を「湘山」などと記す文献もすくなくない。林鵞峰は「我が朝の先輩、鎌倉を指して瀟湘と称すれば、江戸は鎌倉に近ければ湘東とも湘左とも申すべきにや」などと私見をのべている。ただ、この字はあくまで湘江をあらわすものだし、「瀟湘八景」をえがいた水墨画がつたわると自然、失われた歴史をはらんだ、風光の地のイメージが重ねあわされた。オシャレでなくては湘南ではない、といった解釈は、そのへんから萌(きざ)しているのかもしれない。



塔婆に書かれた高時の命日
 さきにちょっと触れた高門の「湯沢紀行」1684は箱根塔ノ沢の紀行であるが、体調のよいときは湯坂古道をのぼって箱根石仏や近傍の大雄山、宿近くの塔の峯阿弥陀寺などをたずねている。阿弥陀寺には、中世の古塔が入り口にたつ奥の院の洞窟に、木食弾誓(1551-1613)がたてたという近世型尖頭板碑などがおびただしく残っている。弾誓は有髪異形の行者で、佐渡など各地をめぐり、さいごは京都の古知谷で入定したというのだが、日向の浄発願寺や横浜などにも伝承がのこっている。

 それはともかく、高門の時代には箱根塔の峯はすでに荒れ果てており、高門は「塔を巡るつゐでに、須菩薩の事など思ひよそへて、
 誰住みて空より花のふるき世を 巌の内の春に偲ばん」
と和歌を詠んでいる。唯識・一切空、の思想を身に付けたインドの高僧・須菩提(須菩薩・スブーティ)は洞窟で宴したところ天人が賛嘆の華をふらせた。しかし、須菩提にいわせればそれもよけいなおせっかいなのだった。

 須菩提は空(くう)の思想の権化であり、生れたさいには蔵も家具も知らぬ間にすべて空になったという。屋根もなく風雨が吹き込む家にすんだところ、また神々があわれんで雨を降らせなかったとか。じっさい須菩提はその清貧と温厚さゆえに、仏弟子のなかではもっとも多くの供物がささげられたと伝えている。しかし、そんなかれも仏陀に逢う前は怒りっぽく、「悪性須菩提」と呼ばれていた。頭がよくても神経質、家族すら遠ざけ、山中の鳥の声や風のざわめきにさえ腹をたてた(支謙訳「撰集百縁経」)。「梅花無尽蔵」に、鎌倉のことわざとして伝えられる「風吹須菩提」という謎の言葉(レポ278参照)は、たぶんこれをふまえたものと思われる。まだ成仏前の聖霊がいらっしゃる場所、けして物音をたててはならない、という謂いなのだろう。


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