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もちださんの鎌倉リポート No.301(2018年4月4日)



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江戸の旅人たち―観光のはじまり・8―


 滑稽本作家の仮名垣魯文(1829-1894)は開化物を書くいぜん、「弥次・北」道中物で名を馳せた。本家本元の十返舎一九にも「江之島土産」1810「金草鞋」1833といった鎌倉物がいくつかあるのだが、魯文も「江の島栗毛」1857などを書いている。「弥次・北」道中物は板元の求めにより、二世為永春水など数多くの二流作家が書いているが、魯文のものは幕末だけに言文一致も洗練され、文章もかなり自然で読みやすくなっている。

北「全体、鎌倉といふとこは、一向おらにやあ、解せねへ土地だぜ。
弥「なぜ/\。
北「なぜといつたつて、鎌倉山の星月夜、とか何とかいふて、名所の多いとこだといふが、来て見ると浜や畠ばつかりで、何にもこれぞといふ見物もねへからよ。



鬼の大家にでくわし・貝細工に追っ払われ・蒔き銭を要求され・・・
 大仏では「破れ衣をまとひたる和尚」が胎内くぐり(有料)を勧めてくるが、北八と口論。こいつは酒乱だからと、弥次さんがとりなす。八幡宮でも法師が宝物見物(有料)を勧めるが、「どふせろくな物じやああるめへ。見たところが小便だ」と一蹴。おまけに北八が玉垣に立小便して、宮奴(みやつこ)に手ひどく叩きのめされる。こいつはうまれつき貧乏で、いろはのいの字もよめない馬鹿だから、と弥次さんがまた必死にとりなして、赦してもらう。

 ほうほうの体で逃げてきて、今度は弥次郎兵衛が失態。雪の下では、まだ日がたかいうち宿にはいったため、ついでに床屋にでも行くか、と旅籠をでて、うっかりとなりの宿屋に帰ってきて、飯まで食ってしまう。すぐ謝ればいいものを、意地をはって大騒ぎになる。

「このお客はうちの客人じやあねへぞ。大方、飯稼ぎだらう。いけあつかましい。
「ひとのうちへ門違ひだとつて入つて来やあがつて、おまけに飯を食らひ倒して、よくいけしやあ/\とそんな御託をあげやあがる。
「やつぱり横着心があつて、飯の一杯もただ食はふと思ひなさるもんだから、ぐづ/\しているのだらう。


 「戸沢瑞子のきみ・旅日記」1821の筆者(1765-1836)は山形の新庄藩主・戸沢正胤の継母。越後井伊家の出身で前藩主の後妻にはいったものの、夫は早世。長年夢に見た江の島詣でが叶ったのは57になってから。海の青さに驚いたり、輿にのったまま江の島の波にびびったり、岩屋まで行ってもう歩けなくなってしまったりと、一生を江戸屋敷にくらしつづけた大名の奥方の、世づかないさまが面白い。

 「かかる所に塩染みて、辛き月日を経ぬるは、いかばかり物憂くも有りぬらん」と、はじめこそ海士の暮らしを憐れんだ彼女も、江の島を離れる段になっては、ここで一生暮らすことさえ想像するようになった。
 波ならず名残りをぞ思ふ帰りては また立ち寄らむ事の難さに
 引く汐に身を任すともここにして 命尽くさんことをこそ思へ

 戸塚ではめくら瞽女の集団、江の島では百味講などにであった。鎌倉ではあいにく八幡宮が焼失していて、「坂の上には板もて行き来をとどめたれば、石ずゑをだにも見ず」というありさまだったが、金沢では高級旅館・東屋に二日も滞在し、舟遊びや貝拾いなどを喜んだ。観光地では、茶屋の女が客に遠眼鏡をみせ名所解説をするのがはやっており、勧められるがまま、これも体験している。

 ちなみに先の弥次・北の貧乏旅では、ひとつ四文のはずの菓子が八文、こいつはあまりに強欲だと憤慨するが、高価な遠眼鏡代も入ってるんです、と言いくるめられてしまう。磯の子僧にはちっぽけな鮑を売りつけられる。
北「をい、弥次さん。岩屋を拝んで早く鎌倉へ行かふぢやあねへか。
弥次「をを、そふよ/\。こんな所に長居をすると、尻の毛まで抜かれらあ。



国会図書館デジタル‐コレクション(ndl)より
 女の旅には危険もあった。魯文の「大山道中膝栗毛」では、主人公の弥次郎兵衛が野道でみつけた「十六七位」の稲刈り娘をむりやりかどわかそうとして叫ばれ、駆けつけた老婆に小突きまわされてしまう。幕末にはまだ「冗談」で通ったのかもしれないが、いくらモテない中年男とはいえ、さすがにこれは同情できない。

 金持ち相手には、宿場女郎というのがいたらしい。しかし近世の宿場女郎と、中世の遊女宿とは多くのちがいがあった。もともと古語で「遊び」とは歌舞のことであり、遊女とは歌舞団のことだった。その芸のルーツは宮中の采女とか内教坊などにあったらしく、鑑賞者には王侯貴族はもちろん、上東門院など高貴な女性も多かった。今様マニアの後白河法皇などは、はるばる老妓を呼んで神楽歌などを習っているから、これもあきらかに芸のほうだ。

 大江匡房の「遊女記」にえがかれるように、下層レベルでは当然客をとることもおこなわれたのだろうが、静・祇王・仏御前・熊野・千手の前・・・といった「平家物語」などでしられる一流どころのヒロインたちは、むしろ由緒ただしい芸によって貴人たちに見初められたといっていいのだろう。義朝の長男・悪源太義平など、遊女腹の子であっても惣領とするのに特別不都合はなかった。いまでいう「銀座ブランド(笑)」のホステスなんかより、はるかに身分はうえだったのだ。



鎌倉で遊女がいたとされるのは一の鳥居あたり
 塩谷朝業(?-1237。宇都宮氏)が出家後、亡き主君・実朝の法事のためふたたび鎌倉を訪ねたさいの日記「信生法師集」には、宿々の馴染みの遊女の対応がみえる。うらぶれたかれの出家姿に、玉の輿の夢が断たれたためか、もはや女たちのあしらいは冷たい。

○ 橋本の宿にて、年来の宿にて侍る君のもとに物云ひ・・・
○ 池田の宿にて昔、申しなれたりし侍従といふ君のもとに宿を借り侍るに、見知らぬさまにて宿を借しげにもなければ・・・
○ 手越の宿にて、昔の宿にて例ところに行きて乞食をし侍る・・・

 黄瀬川・鏡・青墓・野上・美濃赤坂などといった中世の名だたる遊女宿は、近世までにその多くが衰退し、戦乱や水害などで廃墟と化していたことが、紀行文などからしられる。水辺が多かったのは、そこが公界であり、原則「無縁・無主」の土地だったからで、敵味方なく泊めたり、遊ぶことができたからだ。遊女が宿場の長とされたのも、「遊女であるかぎり、けして特定の政治・権力に属さない」、という暗黙のルールがあったためなのだろう。しかし戦国時代には、いつまでもそんな聖域が存続しつづけるわけにはいかなくなり、比較的自由だった女たちの身の上にも、大きな変化がもたらされたようだ。・・・



宮部義正の名もみえる
 野毛山の県立図書館蔵「後之相模路日記」1792を書いた空阿は、鎌倉からの帰路、神奈川の宿で、「障子一重隣にては、酒(みき)酌み交はし歌謡ひ、三筋の糸に憂き秋知らぬさまにて、うかれ」さわぐ旅人に、過去の遊女の里の俤をみた。みずからは、「仲といひ益といへる」若い仲居さんらに乞われて、明け方まで30本もの扇に、狂歌などをしたためてやった。

 空阿については、どういう立場のどんな人物か、わからない点が多い。古典注釈・有職などの著作がいくらかのこっており、苗字を欠いた、「西郊盤渓隠士・白蓮社空阿・源義亮良明居士」という署名がしられる程度。一行は「武芝の君」の先祖の墓に詣でるため、江戸愛宕山下の庵から、建長寺天源庵をたずねた。

○ 今朝しもや、開山千光国師の影前にて、法の事行なはる。鎮叟・石霜の両長老をはじめ、法師たち集ひて施餓鬼にやありけん、きん打ち鳴らし、いと涼しやかに聞こゆ。かの何がしの遠つ祖の名牌の前に孝義、謹みて香をささぐ。奴(やつこ*自称)も等しく額付きまいらせぬ。事終りて長老禅師とともに斎食たうべ、後しばらく物語などす。
○ 言の葉の道など相語らひつつ、・・・何くれかくれ物語し、薬石(やくせき)など、そのほか酒(みき)酌み交はし、初夜過ぐる後に、衾かづき伏しぬ。



県立図書館(奥のビルが新館)
 別に「佐賀美路乃記」1777という鎌倉紀行があったらしく、「後之――」というのはその続編といういみらしい。「後之相模路日記」の特色として、空阿の視線はもはや観光よりも世のあわれにそそがれる。

 半裸の駕籠舁きが嬉しげにのむ、たった一杯の「濁り酒」であったり、向陽庵(景清窟)の碑であったり、「弾の左衛門頼景てふ、えたの長吏の棲み家」であったり。程が谷ちかくでは没落した富豪の別邸が売られ、「かぼちや茶屋」なんていう企画モノの観光施設になっていた。もちろん前作の紀行との重複を避けるいみもあったのだろうが、末尾ちかくには、大井の海辺に捨てられた無惨な馬の屍体を悼んで、(ほとんど旅とは無関係な)長歌まで載せている。いわく、どんな名馬も、見い出すひとがなければ一生を駄馬として使い捨てられる、それは人もおなじだ・・・。

 世をすねた耄(おいぼれ)を自称する空阿は、肝心の公務についても、かなりさっぱりと、冷淡に記すだけだ。正式に墓参を命じられたのは「その家の宰(をさ)孝義」という人で、空阿は付き添いにすぎないが、書きぶりからみてその孝義の父で和歌の師でもあったかと推察される。他の文献を調べれば、より詳細がつかめるかもしれない。


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