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もちださんの鎌倉リポート No.302(2018年4月10日)



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江戸の旅人たち―観光のはじまり・9―


 見覚えのあるこの字は、江戸の俳人・立羽不角(1662-1753)の三男、寿角(1708-1769)の鎌倉紀行「二度のかけ」(1732、神奈川県立図書館蔵)。くせのある版下の文字も、書きぶりも不角そっくり。この二年前に法眼になったばかりの父・不角(71・松月堂法眼)が序を書いているが、鎌倉旅行をしたばかりの息子に、紀行文をかけと強く催促したようだ。寿角(25)はとりあえず僕(従者)をつれて、もういちど鎌倉に向う。

 題名は梶原景時の故事「一の谷二度の駈け」に依っている。若い寿角にとって、たぶんこれが単独での初出版だったようだ。父の不角は40と80の年に、「鎌倉紀行・笠の蠅」1701、「鎌倉海鏡・猿田彦」1741を著している。句風、読み物(俳文)としての趣向をはじめ、父の模倣をあらゆる点で脱してはいないが、俳句結社や出版業で大成功した老父の跡をなんとかして継いでゆこうという、二代目としての自負というものはかんじられる。

 「滑川は一文惜しみの百損と世にいへる処なり」とし、青砥左衛門の清貧ぶりをからかうのも不角流。「扇の井、今は孑孑(ぼうふり)だらけにて、手玉にも成らぬ体なり」。現在は手押しポンプで庭の水撒きに使用しているようだ。



「この愚編は書画ともにみづから動らかぬ筆を躙(にじ)れば、偏に見許し給ふべし」
 おやじ譲りの脱線ぶりとしては、旅先で蓼の酢の物を食っているうち、「蓼くう虫」と物語したり、江の島の岩屋で溺れ、なぜか龍宮城で鮟鱇の先生に説教される。「富貴ばかりを願ってはいかん。われら魚は、吊るし切りにあっても人の口をよろこばせる、それが「仁」というものだ」。・・・どこか後年の「黄表紙」(江戸の漫画)をみるような展開。七里が浜では打ち上げられた鰹の烏帽子(*電気クラゲ)の美しさに魅せられ、刺される(笑)。

 独自記事もいくらかあり、光明寺では「お十夜」復活に功のあった義誉観徹上人(1657-1731)が前年に遷化した旨がしるされている。冬に池の蓮華が咲き、本堂のうえに龍燈がともった、と云々。のちの伝説では常日頃竜宮に呼ばれ、内藤家墓ふきんにあった穴に入って再び帰らなかったとつたわる人だ。

 能見堂では現存する鈴木宗a居士碑1731の記述がみえる。この地を深く愛した鈴木は江戸の医師で、自身はたびたび旅行することができなかったため、堂に旅人のための医薬品を備える約束をして、自身の身代わりとして寿蔵(生前墓)を「筆棄松のもと」にたてさせてもらった。寿角がみたのはその翌年というわけだが、鈴木は寿角よりちょっと長生きをして、やがて碑に辞世を追刻し、めでたく埋葬されたという1771。碑は一時撤去されていたが、近年山上に戻された。


 生前墓といえば、盲目の大詩人・高野蘭亭(東里1704-1757)ものが、円覚寺の巨鐘ちかくに残っている。この人は服部南郭とならび称された徂徠門下の文人で、大名にも教えるなど比較的裕福にすごし、五山の僧侶にも好かれて別荘の提供まで受けた。「髑髏盃」を愛したという奇行伝説は、このふもとにお住まいだった澁澤龍彦さんも小説にして、文学ファンにはおなじみ。

 のちに安達清河(修1726-1792)という漢詩人が、「相中紀行」1784のなかで蘭亭の墓碑1754をたずねている。「片碣(墓石)は年を経て苔蘚封ず」とあるから、没後は寂しいさまだったらしく、清河は帰源庵で思い出話をきいた。また別荘は「松涛館」、その「艸堂」の庭は「蕉鹿園」といったらしいが、くわしい場所はわかっていない。

 鹿園に旧を思い独り盤桓(*徘徊)す。 秋老の幽棲に暮色寒し。
 情知れば人事は都(すべ)て夢の如し、 唯だ見る凄風に蕉葉の残れるを。


 下野に生れた清河は南郭にあこがれ、修験者の家を捨てて江戸にでた。「相中紀行」では三浦などで亡き師匠・南郭の足跡も尋ねている。豊後岡藩藩主から餞別が贈られたほか、桐生の豪商で風流人の長沢紀郷がスポンサーになって同行。太宰春台らの貧乏旅1717にも言及し、酒に乗り物、ゆとりの日程にいたるまで、紀郷の万事行き届いた幹事ぶりに感謝している。

 「見えず当年に笛を吹く客」。太宰春台の紀行文には能見堂で得意の笛を吹いたと書いているが、とうぜんながら、そんな酔狂な旅人はあとにもさきにもいなかった。春台がそれを書いたのは38歳。すでに還暦ちかい清河(59)とくらべれば、見ぬ世の友はずっと若く、まだわるふざけも多少はゆるされる年齢だったのだ。清河の詩風はおしなべて平明。付録に載せられた長沢の詩もまた、さほど見劣りはしない。
  
 ・・・
 枕に敧(よ)りて眠るも熟すに難く、 郷を離れて思い窮(や)まず。
 殷勤に尺素(*書簡)を裁ちて、 海潮の通うに寄せんと欲す。


 県立図書館では新館三階が郷土資料室になっていて、他にも戸田幹(它石子)という上方の漢詩人による「鎌倉紀行」1691や、守村抱儀(鴎嶼1805-1862)という金満文化人の編んだ「金沢紀遊」1834などの実物を手に取ることができる。資料室には他にも、「神奈川県郷土資料集成」や「関東俳諧叢書」など、活字化された資料も揃っている。書架にないものは、検索機のレシートをちぎって受付にわたすだけ。

 近世以前の文献は厖大にあり、かならずしも研究がすすんでいるとはいえない。漢詩など人気のないもの、価値不明のものなどは数千円から数万円でしかなく、新刊の専門書と較べても、あまり変わりがない。ただ、古文献の「価値」は値段ではないのだ。たぶんまだ古書店や地方の図書館、非公開施設や研究者などのもとに死蔵された、未整理・未発掘の資料も数多いと思われる。

 戸田の紀行については、すでにドイツ文学者・富士川英郎さんらが翻刻して「紀行日本漢詩・T」におさめてある。「国文学者」は日本の漢詩にあまり関心がないのだ。「鎌倉紀行」には、朱子学的でさかしらな詩や史論がめだつものの、それも17世紀の時代相をよくあらわしている。



「枝ごと籠に入るる柴栗(竹甫)」
 「金沢紀遊」は図書館の検索ワードでは跋文を書いた(児島)大梅の著作とされているが、もちろん誤り。抱儀の本職は浅草蔵前の札差(いまでいう銀行)なのだが、酒井抱一から絵をまなんだり、漢詩・俳句は玄人筋と評されるほど入れ込んだ。また詩壇・俳壇のパトロンとなり、莫大な財産を湯水のようにつぎ込んだという。本書の旅もまた、小森卓朗ら江戸の俳人・文人を大勢引き連れてのものであり、さらには途中で上方在住の俳人・成田蒼虬一行の江戸くだりに落ち合って、ともに鎌倉見物を案内しよう、という大盤振る舞いなのだった。

 つれていた下僕のひとりが行方不明なので気をもんでいると、江戸の土産にと柴栗を買ってきたという(右頁)。今日のいわゆる「天津甘栗」は殻ごとシロップにつけこんで甘〜く焼き上げてあるのだが、それはたぶんフランスの租界になった中国の天津あたりからひろまったロースト法で、当時はない。生で買った江戸っ子ははたして、どんな調理をしたのだろうか。

 栗とか栃の実などは、縄文クッキーなどとしてしられるように、太古の遺跡からも出土している。栃は山栗ににて毬(いが)にくるまれた大ぶりの団栗で、いまも水にさらしアクを抜いて搗き、栃餅をつくる国や地域がある。先年、荏田の無量寺跡というところにたくさん落ちていたのをひろったが、すべて虫が入っていて標本にはならなかった。


 国会図書館ndlにある「江嶌鎌倉紀行」1881は明治十四年の政変の直前に、筆ではなくペンで書かれたもの。著者の「礫川漁人」とは近世本草学のながれをくむ植物学者・白井光太郎の若き日のすがた。当時はすでに横浜まで汽車がかよっていたが、白井(19)らは徹夜して歩けば徒歩で往復できる、などと無謀なチャレンジにでた。

 東京神田を午後六時半に出発、戸塚で夜が明けたものの結局、全員が絶望的な疲労から人力車をかりた。江の島に泊り汽車で帰るにしても、所持金が乏しい。弁天の茶屋には、烏帽子岩の方向に固定した「望遠鏡」があった。節約のため、名物焼き蛤も一人一個。波浪のため弁天洞は閉鎖されていたが、安宿では中居さんの着物のほつれからお尻の一部がみえるなどといって喜びあった。

 横からみた大仏、とか頼朝の墓塔(旧)などはイラストにしている。本草学者は図鑑を描くから絵心があるのだ。長谷寺では拝観料をまけろ、といって堂守婆あにきつく睨まれ、夕方まで飯もくわず横浜駅(初代)まで歩きつめたが、けっきょく汽車賃が足りずひとりをのこしてゆくことになった。その人がどうしたかは書かれていない。


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