トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第303号 


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もちださんの鎌倉リポート No.303(2018年4月19日)



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ごはん塚


 ナントカ塚、というのはよく聞くけれど、和田塚のように削平されて石塔ばかりのこっていたり、きれいに整備されて墳丘を築き直してしまったものも多く、もともとあった感じをイメージしにくい。

 その点、この「ごはん塚」は、まだ「畑の中に残された謎の盛り土」といった雰囲気をよく残していて、都市開発以前の景観をいまなおうかがい知ることができる。鎌倉時代の英雄・畠山重忠のコアなマニアならご存知かもしれないが、二俣川の合戦で敗れた家臣五人が葬られたとつたえている。「ごはん(五飯)」とは、「食事中に襲われ惨殺された」からともいうが、そのへんは伝承じたい、定かでないらしい。


 ごはん塚の場所は横浜市緑区鴨居7丁目の最奥にのこる農地の中。といってもかなりややこしい場所にあるので、神奈中バス「鴨居7丁目」を検索して行ったほうがいい。現地は白山高校などがある見晴らしがいい尾根筋の頂。鴨居側はすぐ下まで宅地開発がすすみ、びっしり新興住宅街なのだが、尾根裏にあたる保土ヶ谷区上菅田町方面はまだ畑が多く、「丘のヨコハマ」の原風景がひろがる。とおくにいくつも見える無線局の鉄塔は、携帯各社の中継施設のようだ。

 塚は下る側バス停@のすぐ後ろの斜面の上なのだが、周囲が畑になっているため、ガードレールのある細道Aを時計回りに迂回してゆく。塚の手前の空き地には柵Bがあるが、それはよけて通っていいらしい(畑に入るのは厳禁)。塚は解説碑Cの後ろ側。実は地元の親切なおばちゃんが、かなり離れたところから案内してくれたので、ひとりなら戸惑ったかもしれない。ありがとう、おばちゃん。


 いまは木の卒塔婆と石の香台があるにすぎない。朽ち木の根がのこり、片岩のかけらもあるので、かつては大木がたち板碑片などもあったのかもしれない。ふもとにある蓮性寺のたてた解説碑によればもともと五基の塚があり、他の四つは戦後の開墾でうしなわれたという。とすると鶴ヶ峰の重忠六ツ塚(レポ75)や長尾の五所塚(レポ254)などとおなじく、ここもいわゆる十三塚であった蓋然性が高い。

 場所柄、ここは鴨居(緑区)・菅田(保土ヶ谷区)・白根(旭区)地区の境界にあたっている。菅田地区についてはさらに神奈川区にわかれており、江戸期にも都筑・橘樹郡に分割されるなど、古来郡界の変動が窺われる。十三塚は修験道による魔よけの祭壇といわれ、村堺の高地に築かれることが多い。もちろん高地であるだけに砦の伝承とかさなることもあり、畠山の家臣にかぎらず無縁の戦死者をそこに埋めた、ということも排除できない。庶民にとっての「魔」とは、祟りや疫病だけでなく戦禍でもあったろう。

 仮に伝承を信じるならば、重忠が応戦した鶴ヶ峰六ツ塚から、「家臣」らは小机・中山方面の秩父平氏に援軍を求めにいった。二俣川からの主要街道は頼朝・重忠伝説のある白根通りと中原街道なのだが、そこが封鎖されて突破できず、五人はけわしい峰筋のほうへと誘導され、伏兵によってあえなく命をおとした。・・・



法国寺と向かいの公園
 この地は別のいみでも霊地だった。前述のガードレールのある細道を越えてくだった鴨居側の崖下は、かつて阿弥陀谷戸とよばれていた。谷奥の崖地はいま「こざか第二公園」になっているが、木食弾誓(1552-1613)が修行した洞窟が戦後まであったという。公園の向かい、周囲の新興住宅にまぎれるように、ささやかにのこる法国寺が弾誓上人の庵の名残りであるという。

 弾誓は江戸初期に信仰された高名な浄土系修験者で、有髪異形の僧。佐渡・信濃で修行してその名を顕し、晩年は箱根塔ノ峰阿弥陀寺・京都古知谷阿弥陀寺を拠点として活動、即身成仏した。他にも大山の日向浄発願寺などを開いたとされ、人々の病を癒したり浮浪者・犯罪者の更生につとめたりした。

 じっさいに弾誓がここに来たかはさだかでない。本人でなく、弟子筋の者だったかもしれない。あるいは弾誓よりずっと以前から、ここに住んだ行者がいたのかもしれない。ちかくにはかつて馬捨て場や堂坂の地名があり、何がしか修験者の墓というものもあったらしい。馬捨て場もまた、異界として人の近づかない聖別された土地なのだ。



現在の蓮性寺と本尊薬師
 いっぽう、ごはん塚を管理していた蓮性寺はいったん廃寺となり、下のほうにある真言宗善徳院に合併されている。といっても善徳院じたいが宅地レベルの小寺院であり、すみっこにある地蔵堂ていどの祠に「蓮性寺」の名札がかかっている。祠のなかには、仏壇クラスの小像があるだけだ。

 門前にはふるい庚申地蔵1666などがあるものの、「風土記稿」には阿弥陀谷戸の地名のほか載っていないところをみると、ここも江戸期にはすでに里の別寺院(林光寺)が兼務する無住の堂であったのかもしれない。

 ららぽーと横浜の最寄駅、JR鴨居駅ちかい鴨居山林光寺には延応年間の板碑がつたわるほか、寺前の八王子往還は「鎌倉道」といわれていた。そのとなりの本柳寺には14世紀の五輪塔(レポ77)がある。これはすこし山手の「殿谷戸」にあった転用やぐら(かんかん穴・横穴墓)から出たものという。とはいえこうした石造物の流行にしても、せいぜい鎌倉後期からだから、もとより重忠の時代にまで遡れるものではない。あまつさえ寺は、領主をふくめ近世にすっかり再編されているため、それ以前の伝承はなにもない。



松前桜・須磨浦普賢象(4.14)
 畠山重忠が所属する秩父平氏は、平安末期に武蔵国留守所(国府代理)となり、このへんにも小机六郎とか中山氏など有力な支族が散在したらしい。これらは佐々木氏と姻戚関係をむすび小机鳥山郷開拓(吾妻鏡)に従事したとみられ、しだいに北条幕府にとりこまれていったようだ。「鴨居」氏もその下に属していたのだろう。かれらの先祖に「五人」がいたかどうかは、むろん空想の域をでない。

 鎌倉武士の生きてきた証しは、ほとんど伝説と紙の上にしかなくて、はっきりした遺物によって立証できるものとなると、けして多くはない。青葉区の鴨志田というところは、いまはせいぜいTOKIO長瀬さんの話題くらいしかないのだが、集合墓地に県内最古の板碑1244(レポ48)が、ひっそりと伝わっている。これは頼朝の上洛1190のさい、先陣をつとめた重忠の従兵のうち八列目につらなった「鴨志田十郎」の、おそらく子の世代のものらしい。

 吾妻鏡には、他にも「中山五郎」「都筑三郎」など、近在の武士の名がみえるが、鴨志田の初期大型板碑のようなきわだった遺物がないため、厳密にはどのへんに実在したかはよくわからない。鎌倉道の伝承地にしても、このあたりはあちこちにあって諸説錯綜しており、重忠が二俣川まで通ったルートについても、こまかくは知られていないのだ。


 今回は里山ガーデンから中原街道筋をあるいていった。なんどか上り下りして、サーティワン(BR)がある四季の森フォレオというスーパーのわきから折れて、尾根筋をまた上る。土地の起伏は実際にあるいてみなければわからない。古来の道は近代のまっすぐな道とはちがって、ぐねぐねと続く。先月の肺炎がまだなおりかけのせいなのか、背中は痛むし、なかなかきつい。

 住宅密集地がとぎれ、農地が開けているのはその先。四月なかば、まだ遅咲きの桜があるのに、こいのぼりをあげている家も。というか、首都圏ではもはや、こんな風物詩もめずらしくなった。かりに庭があったとしても、周囲にあるていどの見晴らしがなければ、こいのぼりなんかあげることさえできないわけだ。

 中世の歴史が忘れられてゆくのは、現在の町の歴史とおなじだ。武士たちは、あるいは分家分家をかさね、先祖をいつわり、住所も苗字もかわって、いまなお旧家とは気づかず、続いているのかもしれない。


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