トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第304号 


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もちださんの鎌倉リポート No.304(2018年4月26日)



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 夜の鎌倉がどこか寂しいのは、街灯がすくないからだろうか。お寺なんかも閉まって、観光客も帰りを急ぐ。首都圏のベッドタウンの、ありふれた時間がはじまる。

 昼間には目にも留めなかったクリーニング屋や学習塾の看板が光っている。中世がある種の異界・夢の時間だとすれば、あまりにも「普通」な日常世界の横顔のほうが、私たちにとって、ノスタルジーとかサウタージとかいう言葉にはふさわしいのかもしれない。

 時代遅れになりつつある昔ながらの店、まだ新しいのにがらがらで、空振りにおわりそうな雰囲気濃厚の店・・・。悲喜こもごもの人間模様が、走馬灯のようにまわりつづける。夜の闇はそんなあたりまえの現実を、「王水」のように溶かしてゆく。


 大手メディアにとりあげられれば、あっというまに行列の店。逆に少しでも要求に従わなければ、ここぞとばかりに抹殺。死ね死ね死ねの大合唱。残念ながら、テレビや雑誌を模倣し、便乗・追従・協力する行動パターンは続いている。

 自分自身を棚にあげ、他人を裁くエクスタシーに惑溺した新聞やワイドショー政治。へたな「ラップ」を歌い、笑いながら行進する顔のない活動家。記者たちを魅了するのは、秘書給与をネコババしたあの議員。マスコミは選挙結果を否定するため、人民裁判を日々開廷。かれらが実践してきた「社会主義」の実態とは、みずからの劣情の赴くがまま他人を酷評し、こじつけのかぎりを尽くして揚げ足をとり、審議を拒否し便所のらくがきのような人格否定を、ただひたすら繰り返すだけ。たぶんこれが、組織的パワハラや集団いじめ問題などが氾濫する、未開社会のゆがんだ正義、他罰的要求型思考の【【見本】】なのだろう。

 競争はどの街にもあり、定まったキャパシティのなかでは、脱落してゆく人間も多い。あやふやな成功など、メディアの悪意ひとつで、あっというまにしぼんでしまう。市場経済はネズミ講とおなじく、欲望が際限なく膨らみ続ける。数字は劣化しないから、非現実的な夢や期待はどこかで必ず償却しなければならず、だれかがかならず貧乏くじをつかまされる。破産というしくみはそのためにある。「どこも苦地蔵」のものがたりではないけれど、本当の楽園なんかどこにもないのかもしれない。


 かつての記憶、子供のころにめぐった記憶に較べてみると、街もお寺も、微妙に様変わりしているのがわかる。住むひとも入れかわりつつあるのだろうし、観光客の求めるものもちがってきている。かの頼朝でさえこの街に、なにひとつ残すことはなかった。近年、公園として復元整備された永福寺跡遺跡にしても、もはやどの石が古いままなのか、よくわからない。・・・中世はいったい、どこにあるのだろう?

 歴史には他愛のない伝説もあれば、故意にゆがめられた嘘もある。鬼の首をとったかのような伝統やしきたりも、元をただせば戦後にはじまっていたりする。たぶん目に触れるほとんどすべてのものは、作り直されたものでしかない。それらはおそらく、どんな顔かも知らないような、歴史的にはまったく無名のおじさんたちが勝手気ままに作ったものなのだ。やがてそれも次世代には「なかったもの」のように作り直され、記憶は風化し、ほんのわずかな茶碗のかけら、苔むした瓦礫、しじみの貝殻、時間の澱のようなものに化してゆく。

 人気タウンとはいっても、人が住む町にはかわりない。鎌倉を舞台にした映画やドラマなんかでは、「古都」「スロー‐ライフ」等、過度に理想化されたイメージを「作りすぎ」て失敗してしまうものも多い。杉原千畝のような人気英雄に、街全体をむりくり擬人化しようという動きもある。そんなものはマスコミに踊らされた一部の者によるただの勘違いにほかならず、「インスタ映えする意識の高い私」に類するものでしかない。


 大ヒットしたアニメ「君の名は。」では、多くのぶぶんに「ごくふつうの」田舎町や都会での光景が忠実にえがかれていた。SF世界にも日常のリアリティや既視感を密着させたほうが、よりシュールにみえるのだろう。

 流星が隕ちてある町がとつぜん消滅してしまう、という設定は「戦争」「地震」「噴火」「津波」などの類似事項によって、あるいみありえないことではないと、言葉では知っている。それにしても、世界の滅亡を描いたアニメがあまりにも多いのはなぜだろう。そういえば、人気作家の村上春樹さんにも「かえるくん、東京を救う」ってのがあった。

 そもそも、東京に大地震なんてないのだ。小説にでてくる「みみずくん」(悪役)はようするに「阪神だけ大震災で苦しむのはずるい」「東京にも起こればいい」、といった敗北者の怨念であり、これを倒して東京を救う「かえるくん」(善玉)というのは、自己の奥底にひそむ悪意と無意識に葛藤する良心、といったものだ。だが、たかがアニメや小説とはいえ、主人公がおのれの正義や恋心を確かめるたび、他人の迷惑も考えず、あるいは自分以外のすべてを悪にしたてあげるなどして、いちいち世界を【滅亡】させてしまうというのは、いかがなものか・・・。


 神話学では、世界はひとたび滅亡しても、何度でも再生されるのだという。古代人の感覚では、それは単に冬がきて春が来る、夜を越えて朝が来るような、ごくあたりまえのできごとの象徴だったのかもしれない。未開人の思考・ないし言語体系では、比喩と現実との明確なくべつはない。「ライオンのような王」がスフィンクスになってしまうのとおなじことで、「光と闇」「善と悪との戦い」が現実世界のものとして短絡されてしまう。革命ごっこに狂うお気楽な連中の頭の中では、殺される側の人間も象徴界の存在でしかなく、クローン犬やゲームのアバターのようにリセットされるのだろう、きっと。

 もちろん現実には、失われた世界がそっくりそのまま再生される、などという事はない。革命だの進歩だのという、刹那的な熱狂と興奮の渦にくるまれていたとしても、いちど滅んだものはけして還ってこない。ノスタルジーとは、懐古趣味というよりはむしろ喪失感、あたりまえの日常であったものがしらずしらずのうちに忘却され、昨日までの自分が背中から済し崩しに消滅してゆく、そんな焦燥感のようなものなのだろう。たしかに、私たちは消えてしまうのかもしれない、明日がこなければ。


 ・・・プーランクの歌劇「カルメル会修道女の対話」では、革命軍に迷信であると否定された修道女たちが、グレゴリオ聖歌の調べにのって次々に処刑されてゆく、ギロチンの音で終る。ドビュッシー「月光のそそぐテラス」、グリゼー「時の渦」、ロイ‐ハリス「真夜中に歩くリンカーン」、ダラピコラ「夜間飛行」・・・

 ひとりで歩いていると、頭のなかにいろんな音楽が浮かんでくる。ラジカセの時代、気に入った曲をテープに録っていると、しぜん20世紀音楽が多いのに気づいた。たぶん世間一般の人はクラシック音楽じたい好きではないのだろうし、現代音楽なんかクラシック音楽マニアでさえ毛嫌いするジャンルであるらしい。鎌倉ゆかりの作曲家・武満徹さんに、「音楽はわかる。でもあなたの音楽はわからない」、そう直言した作家もいた。マスコミの評価、大衆心理にひたすら迎合し、異なる声はかき消されてしまう。

 でも音源がある以上、ひろい世界のどこかには、こういうのが好きな人もいるんだろう、きっと。なにもかも非寛容な連中にあわせて機嫌をとる必要なんかないのだ。


 ときおり暇をみつけて鎌倉界隈を散歩するようになったのは、何度目かの入院後のことだ。2002年の小泉訪朝とか、数年前の「オリンピックは、トーキョー」といったニュースは、病院のベッドか誰もいない真夜中のロビーでみた。

 中世関係の本をよく読んだのは、退屈だったこともあるけれど、「開腹手術→切腹」といった連想があったのかもしれない。よく女の人が分娩の痛みを便秘にたとえるが、いいたい事はわかる。限度を超えれば「死ぬほど痛い」というだけのことで、10センチ切ろうと20センチ切ろうと、程度の差なんかないのだ。カテーテルの入り口なんか、麻酔もなしに切られることもある。勧められたら、できるだけ早く切ってもらうのがコツ。たしか佐助にお住まいだった某人気エッセイストさんなんかもそうだけど、渋ってるうちに間に合わなくなる人は多い。

 人の一生はけっきょく、生きたいとか死にたいとかいった意思の力だけではどうになるものでもない。死ぬ時は死ぬし、それは受け入れなくてはならない。「死に様」なんて、偶然のめぐりあわせのようなものだ。真夜中に可愛らしいナースに手をにぎられて死ぬのだとしたら、それはそれで幸せのひとつなのかもしれない。迷惑がられ、嫌われて死ぬやつよりも、日頃のおこないがよかったのだろう、きっと。


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