トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第305号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.305(2018年5月10日)



No.304
No.306



世田谷のなかの鎌倉・1


 東急世田谷線宮の坂駅は、招き猫で有名な豪徳寺の最寄り駅。ここのホームのかたわらに、ボロボロになった江ノ電の車両が保存されている。現在は支線(世田谷線)をのこし地下鉄になっている「玉電」が路面電車であったころ、大正末年から昭和44年の廃線まで走り続け、その後江ノ電に譲渡した車両であるらしい。宮の坂とは、八幡太郎伝説ののこる世田谷の鎮守・世田谷八幡の前といういみ。

 豪徳寺は江戸時代、彦根藩主の井伊氏が参勤交代で住んだ江戸藩邸の賄い料として拝領した飛び地「世田谷領」1633にもうけた菩提寺。ボロ市で知られる代官屋敷も、世田谷領の現地代官だった旧家・大場氏のお宅の一部だ。豪徳寺といえば境内の大量の招き猫が外国人観光客に人気だが、教科書で習う井伊直弼をはじめ代々の彦根藩主らの墓ものこっている。しかし中世には、ここには「世田谷御所」とよばれた吉良氏の屋形があったという。



後頭部に金箔がない節約地蔵も
 「御所」があった豪徳寺参道の右側には、「世田谷城」とよばれる附属の要害の一部が残されている。土塁法面はブロック囲いになっているものの、戦国後期に増築したとみられる二重土塁ふうの手のこんだ縄張りだけは、明瞭にとどめている。空堀には戦前まで水を湛えたところもあったとか。いまの烏山川緑道が外堀だったようだ。

 吉良氏は足利将軍家の同族でも庶兄の出だから、鎌倉時代に幕府の介入さえなければ自分たちこそ「足利家の嫡流だったはず」、そんな強い誇りをもっていた。霜月騒動をはじめ、政争では負けつづき。それでも室町幕府ではそれなりに重んじられ、大名武将としての実体には乏しかったものの、三河吉良庄に所領をもった。関東へは鎌倉府の草創期、成良親王に仕え奥州などを転戦、そこでも悶着をおこしたらしいが、やがて公方府に属し世田谷や蒔田(横浜)に「御所」をかまえた。

 やがて扇谷上杉・小田原後北条氏に仕え、「御所様」あつかいは受けるものの、主にその権威付けに利用される。世田谷城が扇谷上杉に属したことは、江戸・河越など扇谷系の古城から出土する「ウズマキかわらけ」と呼ばれる独自の模様がついた儀式用の土器から伺えるという。しかし豊臣秀吉の小田原攻めで、後北条氏とともに没落。そのため世田谷御殿をはじめ、吉良氏の痕跡はほとんどが失われた。やがて一族は徳川に降るものの、名ばかりの地位にあまんじる。徳川将軍家は三河の出身で、吉良氏の本貫地と重なるから、いわゆる「三河神話」の捏造にも、利用されたのだろう。



勝国寺・世田谷城・伊勢貞丈墓
 吉良氏と世田谷を結ぶもっとも古い記録としては、鎌倉鶴岡八幡宮に世田谷郷上弦巻の半分を寄進した、吉良治家の文書1376がある。弦巻は世田谷区世田谷に南接する、駒沢寄りの地名だ。世田谷八幡宮は吉良頼康(?-1562)が天文年間に鎌倉から勧請したというが、ゆらいはもっと古いのかもしれない。

 豪徳寺はもとは吉良氏の氏寺・弘徳院であったといい、吉良氏ゆかりの横浜蒔田の勝国寺とともに頼康の祖父・政忠の草創1479などと伝えてきた。蒔田勝国寺には、吉良氏の墓所も伝えている。ただ同名寺は世田谷にもあり、豪徳寺の並び、国士舘大学寄りにある世田谷勝国寺の薬師堂本尊は、寺伝や胎内文書などから、吉良頼康の正室・高源院さき(崎姫)のためにつくられたものとか。

 高源院はおんな城主説もある女傑で、小田原北条氏綱娘だった。若林踏み切りのある環七通りのすこし下手には、鎌倉北条家の経筒をまつるといわれる駒留八幡があり、鎌倉道の伝承がある。ここから奥沢九品仏にかけて、【鷺草伝説】の地が点在する。伝説では、吉良頼康の愛妾・常盤の前(奥沢・大平氏娘)が無実の罪で母子ともに川に沈められる。生前に常盤が言伝を結んだ白鷺を、偶然頼康が射落として、その真実を知る・・・。異説もあるが、だいたいそんなストーリー。やがてその地には、鷺草が咲くようになった。


 彦根井伊氏の代官となった大場氏は、世田谷区長などもつとめた旧家。先祖は大庭景親の落胤といい、三河に逃れて三河吉良氏に仕え、やはり三河出身の譜代大名・井伊氏に見い出されたという。あるいはこれも「三河神話」にすぎず、もともと世田谷吉良氏に仕えた土着の郷士だったのかもしれない。

 代官屋敷の母屋は、役所というより農家に近い印象だ。幕末には大場氏も士分になっていたはずだが、一般の村役人の家でも「でい(客間)」のしつらえを凝らし、書院や床の間を構えたし、豪農ならば瓦葺数奇屋づくりのものもでてきた。格式をしめすものとしては土間に張り出した名主溜まり(右下)や式台(玄関)、白州の痕跡が一部に残っている。

 こんにちでこそ高級住宅地としてしられるが、世田谷領はかつて畑作が多く、孝徳秋水がかつてのボロ市をみてその寒村ぶりにおどろいた。そもそも藩江戸屋敷の賄い方であったから、郷奉行の監督下で国許に年貢、というよりは江戸の殿様に直接農産物を届けたりしていたのかも。かつて古着売買からなづけられたボロ市は、後北条氏が実施した世田谷新宿の「楽市」1578のなごりであるという。いまは暮と正月にひらかれる骨董市のようなもので、代官屋敷の入り口では搗きたての餅などが売られる。



治家文書・楽市文書・幻庵覚書(レプリカ)
 世田谷の歴史資料を集めた郷土資料館1964は、代官屋敷の敷地のなかにある。「鎌近(旧県立近代美術館)」を設計した坂倉準三とともに、コルビュジェの弟子としてしられる前川國男(1905-1986)事務所の設計。より本格的な前川建築としては、ちかくにも世田谷区役所・区民会館1959があるが老朽化がひどく、建て替え計画があって見られるのもあとわずか。

 郷土資料館はちっちゃいころなんどか来ていたが、いたずら好きの友達が大場さんの家のほうに入りこんでしまったりと、せいぜいそんな記憶しかのこっていなかった。近年リニューアルがすすんで、展示物もだいぶ充実してきたようだ。なかでも北条幻庵(宗哲)が吉良氏朝の室・鶴松院(氏康の娘・幻庵養女)に、婚礼の心得をしるして与えた「おぼえ(幻庵覚書)」が貴重だ。ただし常設展示では複製。

 吉良氏朝(1543-1603)は頼康の養子。頼康との血縁関係はあきらかでないが、頼康の正室となった高源院崎姫の連れ子で、今川氏の支族という前夫・堀越氏の子だったとも。鷺草伝説では、母・常盤とともに仕末された頼康の実子は、村人によって駒留八幡に合祀された・・・とする。氏朝はやがて秀吉の侵攻に敗れ謹慎、子孫はゆるされて御家人となり、世田谷領は返上、上総にうつり蒔田氏を称した。ただ氏朝はみずから開いた世田谷弦巻の実相院にひきつづきすんだといい、彦根藩による豪徳寺成立以後は、かれが養父・頼康の菩提寺として残した勝光院が、世田谷吉良氏の廟所となっていったようだ。



世田谷区役所
 そのほかにも、烏山念仏堂(吉良頼高)・船橋観音堂(成高)など、吉良氏ゆかりをつたえる寺院はいくつかある、のだが実証に足るものはのこっていない。ちなみに忠臣蔵の吉良は三河系統で、打ち入り事件以降、蒔田氏が代わって吉良へ復姓した。

 世田谷駅ちかい吉良氏祈願所・大吉寺にはなにものこっていないが、江戸時代の故実家・伊勢貞丈一族の墓が、戦前に港区の寺から移設されている。伊勢氏もやはり中世には室町幕府執事という由緒ある家柄、一説に小田原後北条氏らの同族ともいうから、偶然とはいえゆかりなしとしない。

 資料館にはいくつか板碑も展示されている。最古の弘安元年四月日の大日一尊板碑1278は世田谷南部の岡本出土。年号こそ鎌倉時代にさかのぼるが、具体的に武士の名をつたえる資料ではない。かといって、これ以外に目に見える資料があるわけでもない。江戸時代には兵農分離がすすめられる。ある者は帰農し、ある者は没落し、あるいは時代におもねて出自を隠し、「三河から来た」などと巧みに先祖を偽ったたまま、あえて史実を忘却してゆくものも多かったのだろう。


 三軒茶屋のキャロット‐タワーから世田谷通り方面を見ると、晴れていれば大山がそびえている。国道246(玉川通り)の旧道(世田谷通り)をかつて大山道といった。ただ、江戸っ子の大山詣ではここをとおらず、賑やかな東海道を藤沢までいって、そこから北上。江の島鎌倉もおまけに見学した。当時の数ある紀行文をみるかぎり、大山道は観光ルートとしては、かなり地味な存在だったようだ。

 本草家の岩崎灌園らの紀行「相模州紀行」1807では中原街道をくだっているが、川崎の影向寺あたりで現地人に勧められ、この先道が悪いからと荏田から大山道(青山街道)にあらためた。採薬(標本採集)という職業がら、わざと田舎道をとったのかもしれないが、さすがに帰りは江の島・鎌倉ルートを通った。そのほか渡辺崋山「游相日記」などが大山道をつかっているが、絵入りの紀行文としてきわめて稀な資料だ。

 ただ江戸後期には多様なレジャーが広がり、玉川八景などとうたって多摩川が舟遊びをたのしむ手近な観光地になってゆく。戦前までは清流が売り物で、名物は鮎。大山道はしだいに活気を増し、近代の玉電開通へつながっていった。


No.304
No.306