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もちださんの鎌倉リポート No.307(2018年6月2日)



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印融法印500遠忌・1



三会寺(横浜市)にて
 これまでたびたび触れてきた戦国時代の学僧・印融(1453-1519)は、鎌倉時代に関東に伝わってきた真言密教を復興、莫大な写本・著作・講義・伝法などを通じて多くの弟子を育成、応仁の乱などで伝法が途絶えた上方にも伝えた人物。ことし旧暦八月十五日が500回忌にあたるという。

 ただ同時代資料としては、自筆のものがあるだけで、その動向は謎につつまれている。厖大な著作にも自分自身のことはなにも触れていないし、武蔵出身の高弟・覚融(1472-1555高野山無量光院)や融弁(金沢八景龍華寺)らも、なにも書き残してはいなかった。「高野春秋」には「老齢までずっと高野山にいた」などという嘘の伝記が記される。しかし自著の奥書などにみえる日付と場所から総合すると、生涯のほとんどを南関東ですごしたとしか考えられない。もしくは覚融との混同があるのかもしれない。

 つまり生前にはほとんど評価されず、後世になってその価値が理解され、神話化された人物像がうかんでくる。印融が生れたとされる「車屋」という旧家は白壁の土蔵が印象的だったが、産湯の井戸ともども今は無く、むかいの分家(?)の家あたりをかつて「堂屋敷」といった、とつたえるばかりだ。


 去る5月12日、かつて印融が拠点とした三会寺(横浜市港北区)にて、遠忌記念法要がおこなわれた。おそろいのピンクのスモックで記念品を配っていたのは、たぶん保母さん。寺の右側は直営の、かなり大きな幼稚園になっている。稚児行列で盛大に賑わったのも、その父兄が集まったからなのだろうけれど、理趣三昧法会が本堂に移動してからも、参列者はすくなくなかった。

 法要は印融ゆかりの横浜市内の寺で構成する「駕牛会」によるもので、残念ながら高野山や東京埼玉の有縁寺院など、ことごとくは参加していなかったようだ。それでも本堂まえは無量光院をはじめ各地の寺々からの生花でいっぱいになった。定番の菊ではなくて、大輪の薔薇や百合が、最近の和尚たちのあいだの流行りらしい。

 印融といえば、重要文化財「塵袋」写本で知られることが多い。これは鎌倉時代の雑学辞典で、「幼い弟子」のためにどこかから書写してきたものという。高野山無量光院を経て、なんとかいう明治の文部官僚が再発見、東京国立博物館に寄附した。江戸時代に三会寺を中興した28世天循和尚は、多くの筆子(生徒)に文字を教えた(レポ171参照)が、印融もあるいは宗典研究のかたわら、資金集めに寺子屋のようなものを営んでいたのかもしれない。


 法会中の撮影は禁止らしいので、まだ和尚らが準備中に堂内をみせてもらった。建物はそう古いものでもないが、たしかに寺子屋をひらくにはふさわしい。本尊弥勒は、真言寺院には珍しく滝見観音のような宋風の復古作で、秘仏。頼朝・佐々木高綱による草創ののち、南北朝期にこの寺を復興したとされる等海上人(称名寺出身)がつたえた鎌倉仏が、その元になっているのかもしれない。内陣にはその厨子の前、礼盤護摩壇の奥に書をよむ印融の木像がおかれている。

 子牛にのった例の画像は、右の間に掛けられていた。掛け軸にはいくつかの古文書も貼り交ぜられ、裏側には「高野春秋」を引用した伝記が副えられているという。つまりこの寺にも「正しい記録」はのこってこなかったわけだ。

 軸の下側に貼られた観護寺和尚の識語1852には、その年台風で堂が大破したさい、「融師の木主・及び影像は、宴然として牛に乗り、儼然として筆を擁し、秋毫も損ずる所無し」とある。堂の「基陛頽毀して、椽梠差脱」したのを直すあいだ、一時観護寺が預かっていたようだ。それにしても、この牛に乗った特異な画像は、いつからあったのだろうか。



阿字観本尊がえがかれた寺務所屋根
 軸の中ほどにある「印融法印辞世」は後世の写しのようだ。上段に貼られた修復文書1774には高野山の僧の識語があり、「武州鳥山三会寺開祖印融大徳」などと、開山和尚になぞらえている。たしかに墓所にも印融以前の古いものはなく、江戸時代の中興・天循和尚逆修塔がまんなかにそびえている。ただ、等海上人を開山として数えると印融は七世となるらしい。

 「柿生の柿」でも知られる等海は、鎌倉時代の古鐘を売った「日本昔話」でしられる恩田万年寺を復興し、称名寺から延命院(現・徳恩寺)を移して住んだとされ、鳥山楊柳院(現・三会寺)をひらいたのはその弟子の義印法印(?-1400)で、そのつぎの義継(?-1449)が「三会寺」を称した、とされる。

 江戸初期、印融の伝えた密教には、上方からの批判もあったらしい。とりわけ鎌倉由来の「元瑜方」という法脈がやり玉にあがった。復興をとげた関西では、再び関東をあなどる風がでてきた。つまり自分たちこそ「本場」であって、関東の僧から「教えられた」事実が、気に入らない。「子牛に乗った」姿も、あるいは「晩年関東に遊説し、談林を興し(イ・談林无くして)論場を創む」と高野春秋に説かれたような、ある種の偏見からうまれた蓋然性もある。天循が高野山無量光院の求めで写し贈った「印融画像」1805は、この田舎びた駕牛の像ではなく、観護寺にいまは木版の模写だけがつたわる、机にむかった別の御影の模本だった。・・・



ご詠歌・庭儀法要
 本堂のむかって左の間には、タイ風の仏像がある。これはおそらく上座部仏教・パーリ語仏典を研究した釈興然(1849-1924)にまつわるもので、本堂前にもその名を刻んだ石塔がたつ。そもそも仏教は釈迦やその弟子たちの時代には、出家者教団のものでしかなかった。紀元一世紀、北インドのカニシュカ王のころ、世俗をも対象とした「大乗仏教」(=大きな乗り物)がはじまり、どんな功徳も迷信も、仏の方便として許容されるようになった。密教はその極みであり、宇宙のすべてが仏であるのだから、ヒンドゥの神々・道教・神道などと習合するのもまた、実は正統な理解なのだ。

 もちろん、世俗の一切を断ち切った釈迦本来の思想とは真逆をゆく「大乗仏教」の発展には、それなりの哲学的裏づけが必要となる。「一切空」を説く般若説から唯識・縁起説、曼荼羅説など多くの「論」が5-7世紀にかけて深化。日本仏教も伝来当初から三論宗という、きわめて思弁的な学問が官寺にもたらされ、その後の学説や、より自由な信仰を裏付ける基盤となっていった。真言などたんなる呪文にすぎないし、たぶん名号や題目だけでは、仏教はなりたたない。それらは仏教史の上澄みでしかないのだ。

 東南アジアでは反対に出家者教団の仏教、すなわち釈迦たちの時代の仏教が比較的色濃く残っているものとされ、鎌倉の鈴木大拙ら、明治の仏教学者たちの関心をあつめた。



印融・天循墓
 遠忌法要はいわゆる「理趣三昧」。理趣経は人間のあらゆる欲望を肯定するので、仏教史の前提なしに素人が読んでは危険とされた、曰くつきの経であるが、いまではごく普通に用いられ、真言声明(しょうみょう)としても代表的なものとなっている。

 未熟な者には教えられない、それゆえに密教といった。昔のひとが空想したのは、真言立川流などとよばれる、左道密教(邪教)の卑猥な解釈だった。男女交合像などインドではごくふつうだし、聖天像などは日本にも伝わった。未開人は象徴と現実を区別しないから、ほんらいは清浄無垢な多産の象徴であっても、あるいはわいせつな図像と思いこまれてしまう。太平記などがつたえるような、卑猥なパーティーが【実際に】あったのかもしれないし、建武政権を否定するため、批判のための中傷にすぎなかったのかもしれない。

 まあ、現代人がお経の文句を悪用したところで、何を肯定し、何を正当化できるわけでもないのだけれど、身近な問題としては、カルト教団が挙げられる。異常な精神の持ち主にとっては、異常な欲望の肯定と受け止めてしまう恐れがある。熱心なキリスト教徒ほど極端な異端、反キリストを信じるものが多かったように、魔術は時として黒魔術に転化しやすい。正常な密教への建て直しは、印融の時代にとっても急務であったのだろう。


 それゆえ密教の伝法は、修行研鑽を積んだ弟子に、秘密の儀式にもとづいて面授しなければならなかった。かりに関西で儀式が行えないという事情があれば、関東に来てでも受法したい者がいたはず。過剰なまでの秘伝が法灯の断絶をまねき、勢力争いによる謗法が流派の多様性を奪い去った。また予定していた師匠が戦乱にまきこまれ、政治的に失脚・流竄したとか、あるいは貴重な伝書ともども住院が焼けてしまったりと、それぞれの事情があったのだろう。

 関東の印融のところへゆけば、だれでも気前よく伝法が受けられる、はじめのうちは、そんな感じだったのかもしれない。だがじっさいに関東で学んでみると、関東の学問は想像以上に深密で精緻、関西での伝法の荒廃が意外なほど深刻だったことがわかり、はじめてその真価に気づいた。そこで印融の編著があわてて書写され各地に伝播、本場高野山や醍醐寺などにも衝撃をあたえた、・・・そんな構図が想像される。
 
 三会寺の「三会」および弟子に託した「龍華」寺の字義は、弥勒仏のいわゆる龍華三会のことだ。弥勒は56億7000万年後にあらわれる仏であるから、末法の時代をのりこえて廃れゆく仏典を守り伝え、【遠い未来の龍華三会へと法をつなぐ】のは、中世の僧たちに課された使命でもあった。とりわけ印融の融の字は弥勒の種字「ユ」の音写。その思いはだれよりも強かったのかもしれない。


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