トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第31号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.31(2008年5月6日)



No.30
No.32



預言者たち・1



長勝寺日蓮像。
 日蓮宗はむずかしい宗教だ。念仏宗の撲滅・根絶をうったえ、それが容れられずみずからの行為が罰せられるや、被害者感情をむきだしにして反政府ヒーローを自称する。反発をおぼえるひとがいれば、はなはだ熱心な信者もいる。

 日蓮が捧持した「法華経」は、亀慈国(クチャ)出身のインド僧クマーラジーヴァ(※レポ10)が「正しい教えの白蓮華」を翻訳したもので、八巻28品(章)。聖徳太子の時代にはすでに義疏もつくられていた。題名は、泥(俗世)の中からも清らかな蓮の花(真理)が咲く、という意味らしい。@久遠本仏(=仏の永在)、A一乗妙経(=だれでも成仏できる)、という心優しい内容から宗派を問わずひろく信仰をあつめてきたものだ。ただし日蓮の主張は、菩薩である自分の信徒だけが仏となり、それ以外は方便にだまされた天魔だから必ず国を滅ぼし地獄に墜ちる、というかれ独自の読解にもとづいている。

 千葉の上総小湊でうまれた日蓮(1222-82)は立宗以後三度、鎌倉にやってきた。はじめは北条時頼のころ。念仏を誹謗する辻説法をおこなって念仏衆の反撃や焼討ちにあい、いちじ伊豆に流されてしまう(伊豆法難1261)。2年弱で赦され国許に帰るが、そこでも地元民による暗殺未遂に遭遇し軽傷を負う(小松原法難1264)。

 元寇のうわさが高まる中、ふたたび日蓮は弟子とともに鎌倉に舞い戻り、「立正安国論」にしたためた異国侵逼(しんぴつ)の予言が当たった、として執権時宗や鎌倉仏教の巨頭・忍性らに「いますぐ念仏を捨ててわが弟子となるよう」迫る手紙をおくる。1271年、念仏宗の高僧らは問注所に日蓮を提訴。念仏擁護派・平頼綱(※レポ11)らによって信徒260人あまりが逮捕され、日朗ら5人は宿屋光則の土牢に監禁、日蓮本人は引き回しのうえ竜ノ口で斬首、のところ減刑され佐渡遠流となった(竜ノ口法難)。


仏師の流れをくむ近代彫刻の大家・高村光雲(1852-1934)作という巨像。



松葉谷草堂伝承地(妙法寺)。
 減刑は信者・比企能本(大学三郎)と親しかった安達泰盛や、北条氏の身内人でもあった宿屋入道らの嘆願ではないかといわれる。翌年、時輔の乱(二月騒動)を機に恩赦、1274年53歳にしてふたたび鎌倉に入り、幕府に意見を求められたりした。ただ、そこでなにがあったのか、急にへそをまげて身延山にこもり、元寇については何も語るな、と弟子に命じ、東京・池上に没するまで二度と鎌倉に入ることはなかった。

 鎌倉には日蓮宗の寺院や聖跡とよばれる伝承地がおおいが、ほとんどは後世の付会らしい。じっさい日蓮が住んだ松葉谷草庵にしても妙法寺説、安国論寺説、名越切り通しの下にある長勝寺(京都に移転した本圀寺の旧地という)説などまちまちだ。既述のほかに袈裟掛松、お猿畠、牡丹餅尼、行合橋などが鎌倉にまつわる主な伝承であるが、ほとんどの場合、他人を救ったというよりも自分の被虐のみを切々と語っているところが注意される。

 日蓮には六老僧という弟子がいた。日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持らである。このうち鎌倉にゆかりが深いのは日昭、日朗のふたりで、あとは身延山など他地方で活躍。日持にいたってはフビライ・ハンを教化するため海外伝道をはかり、北海道に渡ったという興味深い伝承もある。

 日朗(1243-1320)は伊豆法難のとき手を折ったり、長谷の土牢にはいったりと、逸話が多い。「朗門九鳳」といわれるほど弟子がさかえ、伝説もひろまったのだろう。比企能本はかれの弟子で、邸内に草創された妙本寺も管したという。日昭(1236-1323)は法難中、鎌倉にとどまったとされ、浜土の法華堂(妙法蓮華経寺)をひらき、この信徒を浜門流という。日蓮宗ではとんがった人物が重んじられる傾向があるが、法難のあいだ穏健にして身をつつしみ、伝法の拠点を守りぬいたとすれば、弟子の筆頭として日朗におとらぬ役目をはたしたといえよう。


比企谷・妙本寺。もとは実朝養女・竹御所の法華堂があった地で、中世の万葉研究者・仙覚もすんだ。



実相寺。裏手の墓地に日昭の廟(追善碑)がたつ。
 浜土の法華堂はのち伊豆玉沢に移転(三島市玉沢・妙法華寺)、旧地は材木座高御蔵付近でいま実相寺のあるところという。啓運寺もかつて「妙法寺」となのっていたらしい。いずれも草堂だったために移転や名義替えも多く、場所の特定はむずかしい。

 このころまでの日蓮寺院はけして現在のような大寺院ではなかった。室町時代、「東朝西隆」とうたわれた中興の祖、日朝・日隆や、「なべかむり」の刑になったとして知られる日親(1400-88)などの時代になって、京都を中心に大きく興隆したらしい。1532年には権力者とむすんで浄土真宗の総本山・山科本願寺を焼討ちし、やがてその「報酬」として京都市内の日蓮宗徒は相応の大弾圧を受けた(天文法華の乱1536)。敵方の本願寺は堅牢な城郭だったことがわかっているので、法華一揆とよばれた日蓮宗徒の重武装化はまぎれもなかった。城興寺など、法華がわの遺跡からも深い濠などがみつかっている。

 こうして日蓮宗も穏健に傾いていったが、一部の僧は信長の前でも浄土僧を相手取って安土宗論という訴訟をひきおこし、浄土宗を崇拝した徳川の時代には「不受不施」という一部の強硬派が故意に幕命にさからってなんども粛清された。鎌倉では薬王寺の前身・梅立寺などがこの派にぞくしていたという。

 もちろん、日蓮系をなのる一部のカルトとかいうようなものを除いて、おおかた現在の寺院では、むかしのように宗論にこだわって要らぬ悶着をひき起こすというようなことはもうないのかもしれない。かつては、他派を強引に折伏(しゃくぶく)、つまりいきなり乗り込んでいって相手に宗論を吹っかけ、とくいの雄弁術で恥をかかせた挙句の果てに、あわよくばその寺をのっとってしまおう、というような乱暴なこともおこなわれていたという。


安国論寺。


 他者への執拗かつ激烈なひぼう中傷、報復や弾圧を「法難」などとして大げさにあげつらう克明な描写などの反面、自分自身は具体的になにをやってきたのか、楽土というがいったい何がしたいのか、かんじんなところが全くわからない。そんな批判も受けてきた。

 日蓮宗・・・だけでなく、日本の革新思想なるもののむずかしさはそこにある。わたしたちはただ、「そこ」が知りたいのに、「預言者」たちは何も答えてくれない。


No.30
No.32