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もちださんの鎌倉リポート No.32(2008年5月6日)



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預言者たち・2



元日、本覚寺にて。
天命をうけ歴史に登場した預言者たちは、しばしば「異端者」として忌みきらわれた。悪人往生説で救われたはずの念仏者たちも、はじめは善人より悪人のほうが成仏できると曲解して乱行のかぎりをつくし、「本願誇り(阿弥陀に選ばれたことを鼻にかけるばかもの)」とよばれひんしゅくを買った。

 だが日蓮のころには本願誇りも下火になり念仏者にたいする激しい弾圧はおわっていて、和解の道がひらかれた時期だった。かれの、とりつくしまもないけんか腰の念仏批判や、「むしかえし」とも受けとれる執拗な弾圧要求は、和を以って貴しとする人々の神経をさかなでした。KY(空気が読めない)、BK(場の空気をこわす)・・・。もっとも、名も無き貧僧だった日蓮としては、こうすることでしか注目されないと理解していたのかもしれない。

 日蓮は、さきにのべた「法華経」の二大思想@Aとはべつに、B菩薩行道(人助け)というもうひとつの主題を析出し、すべてのうえに置いた。仏は永遠でありつねに存在する、その証拠を見よ、といってシャカは地から湧き出す無数の菩薩たちの幻影を弟子たちに示した(第15章「従地涌出品」)。世間に埋もれながら現実救済にはげむこのものたちこそが、久遠なる仏の一部なのだ、とシャカはいう。

 日蓮は立宗以前に鎌倉光明寺で浄土宗をまなび満たされず、比叡山、四天王寺、高野山などを渡り歩いてすべての経をまなび終え、ついにこの記述にたどりつき魅せられていったという。かれはまず「この地涌菩薩とは自分のことだ」と考えた。のちに日隆がまとめたように、「法華経」でもこの部分のみがホンモノ(本門)であり、ほかの部分はすべて幼稚な方便(迹門)であるときめつけている。


材木座光明寺。執権北条経時の佐介・蓮華寺を移したもの。移転時期は未詳。



長勝寺の「松葉ヶ谷草庵跡」は材木座霊園スロープのなかごろにある(この像は近年のもの)。
 南岳大師慧思(分裂北魏の人、515-577)いらいの伝統的な「法華経」解釈では、迹門(幼稚な教え)も真、という@一乗妙経の立場にたっていた。慧思のうまれかわりだという聖徳太子も、太子の夢告をうけたという親鸞も、そう信じていた。なぜか。第3章「譬喩品」には有名な三車火宅のたとえがある。大火事から避難するとき、高級車かどうかなんて選んでいられるだろうか。仏教にも並・上・特上などの区別があるようにみえるが、それらはすべて大きな、ひとつの乗り物(大乗・一乗)のようなもので、煩悩の火からのがれるうえでは差別などない、とシャカはいう。

 この点で日蓮門徒は一乗皆成仏のかんがえかたではなく、選民思想の立場にちかい。「社会運動をてがけている自分たち」だけがエリートで、その他のものはばかもの・・・それどころか運動の障害物、天魔、地獄落ちだ、とまで主張した。忍性の社会活動に感銘を受けた日蓮は、はじめじぶんの家来になることを要求して無視され、弟子たちはのちのちまで師のかたき、不倶戴天の敵として忍性を逆恨みし、ののしった。「なんの法力もおこせず雨乞い合戦に負けて大恥をかいた忍性が、くやしまぎれに日蓮聖人を佐渡に配流するよう、権力に泣きついて哀訴したのだ」などの"解説"まで捏ね上げた。

 門徒の社会活動とはどんなものだったのか。1398年、日仁・日実らは将軍足利義持と対立し「熱湯を頭からあびせられたり、水を口からたえまなく流しこまれる」拷問を受けたという。日親は1440年、将軍義教に捕らえられ「火責め、水責めや竹ぐしで陰茎をつきさされたり、焼きぐわを両脇にさしはさまれたり、舌の先をきられ」「さらに灼熱したなべを頭にかぶせられたりしたが、最後まで耐えしのんだ」(以上、中公新書「法華経」より)という。日親はこうした責め苦にそなえ、ひごろから自分で自分の爪をはぎ、そこをひねもす錐で突き刺すなどの荒行をつんでいたとされる。

 まるでプロレタリア文学者の伝記のようだが、かれらの行いはただ被虐に耐えただけなのだろうか。権力を超越した自我を強調してはいるが、これをどう社会活動に活かしたか、かんじんなところがいつも曖昧模糊としている。不遜な言い方かもしれないが、日蓮の思想はいわゆる実存主義哲学に似ており、凡庸なひとびと=永劫回帰する平凡な民衆から「とくべつな自分」を確立しようともがいただけなのかもしれない。


「妙法蓮華経」とほられた五輪塔(百八やぐら38号穴左壁)。レポ2参照。



鎌倉時代の小町屋。信徒には新興の商工業者がおおかったという。
 日蓮宗は主に上方の町衆を中心に発展していったといわれる。中世末期、零落した貴族たちは短冊や古文書などを売って糊口をしのいだ。わかりやすくいえば、植木屋のおやじのようなものまでが宮廷社会に出入りするために有職故実を研究する時代になったわけだ。とつぜん都文化をささえてゆく役割をたくされた裕福な町人たちには教養主義・啓蒙思想がめばえ、経済力に裏打ちされた強烈な自意識をいだいていった。そこは「普通選挙法」の成立で庶民がとつぜん政治の主人公に立たされた、昭和初期の日本に似ているかもしれない。

 時代の主役におどりでた町衆にえらばれたことで、日蓮宗は圧倒的な飛躍を遂げた。挫折した日蓮が身延山にこもり、自省の生活にはいってから百数十年がたっていた。

 日蓮伝説は、中世ヨーロッパの聖者伝や社会主義者の革命神話に酷似している。弾圧されればされるほど宗祖の「正義」は高まり、やがて「奇跡をおこした」などの神秘的エピソードすら付加される。ついにはじぶんが主流派となり、異端狩りや植民地工作に従事するといったような加害・迫害行為に【みずから】が踏み出してもなお、宗徒たちの信仰は絶対化される。過去に抑圧されたという被害者感情をてこに、「じぶんたちは選ばれた特別な人間」「革命こそ無謬の正義」などという硬直した思いがかれらをつつんでゆくからだ。
 
 いまも、某革命国家によるチベット人狩りが公然と進行している。だが、進歩的文化人の重鎮とされるお歴々方は、見てみぬふりをしている。「弾圧される自分」をたくみに演出してきたいっぽうで、日々ころされてゆくいけにえの死など、必要悪ていどにしか思っていない。だれもが忘れ去ってしまうその時を、かれらはただ、じっと待っている。


音無の滝。「日蓮聖人聖跡」とされる七里ガ浜・行合橋からみたところ。 



宵闇の「辻説法跡」。住宅街は日が暮れると急速に閑散としてくる。
 集団的正義感につつまれたひとびとは、他人の気持ちが全くわからなくなり、いっさいの批判を許さず、異論を封殺するようになる。社会主義国家には犯罪がない、社会主義こそ地上の楽園だ、・・・かつてそう教える教員たちがいた。自分だけが正しくて、ほかの日本人はすべて悪者。じぶんたちがその手で行なった戦争犯罪を、子供たちにさえなすりつけた。かれらは底のない井戸に、ほとばしる自己愛とうそいつわりを投げ込んで、埋め尽くそうとした。

 かつて心情左翼を自認してはばからなかった、かれら進歩的文化人たちをとらえた「啓示(天のさとし)」とは、いったいなんだったのだろう。かれらはいったい、なにをしたかったのだろうか。いまや言論界の翼賛を獲て、しだいに幼児的万能感に満たされていったにせの「革命家たち」のさもしい自己欺瞞を、人間・日蓮がもし生きていたなら、どうみるだろう。





次回は「塔について」1・2。


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