トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第33号 


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もちださんの鎌倉リポート No.33(2008年5月18日)



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塔について・1



別願寺多宝塔(伝持氏墓)。無記年だが鎌倉末期のものらしい(持氏はレポ7参照)。
 覚鑁(1095-1145)という人がいた。鑁=VAMという字は金剛界大日の種字をしめす当て字で、漢字がむずかしいので梵字で書く場合もある。鳥羽天皇につかえ根来寺をひらき、新義真言宗の祖とされるひとだ。

 この和尚の主著「五輪九字明秘密釈(以下、五輪秘釈)」が、中世の五輪塔ブームに大きな影響を与えた。金沢文庫にも建長六年1254の古写本や貴重な注釈書が伝存している。

 ここで覚鑁は、大日如来と阿弥陀仏は等しい、といっている。ふつうは大日がすべての中心で、阿弥陀はその仮の姿、従者のようなとらえかたをするが、かれの考え方では平等である。五輪塔(大日如来の供養塔)はそのまま極楽浄土を掌る阿弥陀仏そのものと考えてさしつかえないといっているのだ。つまり、往生を願う人が五輪塔をつくったのは、この覚鑁上人の考えをうけている。

 五輪塔や板塔婆に刻まれるkha・ha・ra・va・a(キャ・カ・ラ・バ・ア、裏はvam)は大日如来=宇宙を構成する「五大〈空・風・火・水・地〉」であって、中国の「陰陽五行(火・水・木・金・土)」ににている。ひとが悟りをえて宇宙と一体になるとき「成仏(如来そのものになる)が完成する」というのが密教の考え方。とおい西方にある阿弥陀浄土の住人に赤ん坊としてただ生まれ変わる段階の「往生」とは、まったく別の概念だったが、両者は覚鑁によって同じこととされた。こんにちのわたしたちが「成仏」とは死ぬこと、とばくぜんと理解しているのにはこういう理由があり、真言密教と浄土教がわかちがたく融合している。


白塗りの五輪塔レリーフ。かつて梵字のなかに金泥が残っていたという。いまは墨色と黄ばんだ粉のようなものがあるだけだ。百八やぐら20号穴。



安養院徳治三年銘(1308)宝筐印塔。寺伝では良弁房尊観(レポ11)の墓とも、頼朝の供養塔ともいう。銘文は【写真6】。
 平安時代には大日如来の秘密の神通力で願いをかなえる、という形でひろまった五輪塔は、水晶製の舎利容器か、もしくはちいさなお守りとして権力者が懸袋に入れるなどして身に付けたような一種のご神体だった。それが覚鑁によって大胆にもひとの墓石になっていったのだ。

 さて、「徒然草」で兼好法師は「往生を実証する確実な経文はふたつしかない、光明真言と宝筐印陀羅尼だ」という話を紹介している。宝筐印経は、レポ3でもふれた銭弘叔※(※正確には叔に人偏)の阿育王塔(955)の内部に吊り下げられていた経であり、この塔のかたちが宝筐印塔のルーツになっている。「扶桑略記」によれば該塔は西海僧日延がもたらしたともいい、東京・奈良の国立博物館や京都金胎寺、大阪金剛寺などにいまも数基が伝存している。

 日本の宝筐印塔は金剛界四方仏などの梵字を塔身に刻み、屋蓋には四隅に猫耳のような奇妙な突起がついている。この突起(方立)は銭氏塔では四天王のような天部が鋳出されており、それが退化したものだとわかる。また、銭氏塔では露盤(るばん=相輪)を本体とし、日本での塔身にあたる箱の部分にはジャータカ(仏伝)のインド風浮き彫りがほどこされている。ジャータカとは、玉虫厨子の「捨身飼虎図」とか、敦煌最古の壁画で名高い「シビ王本生譚」とかいう、釈迦前世の美談をあつめた図様である。北伝仏教ではかなり古いタイプの意匠に多くみられるものだ。

 中世の宝筐印塔では、四方仏からみてもあきらかに五輪塔と同様、大日如来の供養塔として日本固有のデザイン変更がなされており、これが墓塔、つまり阿弥陀浄土への往生を象徴するとなると、やはり「五輪秘釈」同然の思想背景があるとしか思われない。


裏面には東・阿閃如来を示す種字ウーン。月輪上の蓮座に安住するさまがよく残っている。



参考・清盛塚(兵庫県神戸市)。
 覚園寺の祖師塔では四方仏の下にさらに2つづつ梵字が加わり、本体とあわせて計十三仏になるという流れがみられる。十三重の石塔というのも中世の流行のひとつであるが、ざんねんながら鎌倉にはふるいものが現存していない。兵庫県にある清盛塚のものは執権・北条貞時(レポ13)が平家の霊を鎮めるためにたてた由緒正しいもので、これにも金剛界の四方仏が彫られている。

 十三重の石塔は叡尊が再興した奈良・般若寺(レポ23)の伽藍の中心にもなっており、その地が奈良有数の葬地・般若野五三昧であったことをかんがみても、往生ないし成仏のための装置であったことは疑いようがない。

【写真6】徳治三年銘宝筐印塔の銘文について
蓮華座(反花)のうえの台座にきざまれた格狭間の束部にのこる。三方9か所のうち比較的保存状態のいい部分を掲載した。
大工沙弥心阿
大檀那沙弥観杲
名字所奉造立如件
■(徳)治三季「戊申」七月日
 ※名字というのは「・・・結縁衆の名字を(記し)」などとつづく文句の一部。かつて塔は胡粉などで化粧され、基台部分の格狭間などに寄進者たちの名前が筆で列記されていたのだろう。塔は鎌倉に残る宝筐印塔としては最古の記年銘をもつ。後補の相輪を除き総高2.04m。


徳治三年銘宝筐印塔の銘。4枚合成。



近世の巨大な墓塔(光明寺内藤家墓所)。
【参考】 塔は時代ごとに形式の変遷がある。写真の宝筐印塔はみてのとおり、相輪部分が肥大化している。大名時計のようなひょろっとしたかたちは台座を加えたばあいの銭氏塔ににているが、銭氏塔の相輪は棒のように細い。また、基礎や屋蓋が大きく張って塔身がくびれた鎌倉期のものとくらべても、まったくの別物となっていることがわかる。

 ふるい塔は石材になってしまうことが多かったらしく、大きなものが揃って残ることは特に珍しいようだ。取り捨てられるなどして散乱した部材を適当に組み合わせたりしたものも少なくないが、資料的価値は格段に劣る、という。また石造美術には地域性もあり、骨董屋を経由してもとの場所を失ったものにはほとんど価値はない。


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