トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第34号 


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もちださんの鎌倉リポート No.34(2008年5月18日)



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塔について・2



明月院やぐらの塔と二尊像。「鎌倉九代記」によれば上杉道合の実際の墓は極楽寺にあったらしい。
 鎌倉には関東管領・山内上杉憲方(法名・天樹道合?-1394)の塔と伝えるものが三つあり(レポ8参照)、そのひとつ、西方寺跡に極楽寺長老・明賢の五輪塔とともに建っている宝筐印塔(個人蔵・非公開)には、次のような銘文がのこっているという(原文は漢文)。

「右、志の趣きは、房州禅閤道合の逆修作善の奉為(おんため)に、宝筐印塔一基、造立せしむる所なり。この善根により現世の寿命を長遠に致し、願主、菩提を証得し、ないし、法界平等に利益せん。よって逆修作善し願う所、件の如し。
永和五年己未(1379)五月十三日、善女、敬しみ白(もう)す」。

 逆修とは生前葬のことで、願文にあるように長寿祈願のためにおこなった。願主の「善女」は道合の妻であろう。「菩提」とはさとり、成仏の意味。「法界平等・・・」とは、この世界に生きるすべてのものにご利益あれ、という常套句である。塔がたんなる墓標のたぐいではなかったことをよく表わしている。

 多宝塔の丸みは古代インドの古墳をあらわしていて、これには「法華経」見宝塔品の喩え話がある。シャカは弟子たちに如来の永在をおしえるため、神通力を発して空中に宝塔(古墳)の幻影をみせた。その墓の中にすわっているのは、遠い過去にうまれた仏である。シャカはその墓の中に入り、ともに並んで座った。二仏はそっくりで、弟子たちは二仏が久遠に存在し続ける同一人であることをさとった。

 塔はもともと仏舎利をおさめた仏の墓(ストゥーパ)のことだった。だとすると、人々がその中にともに入ることを願うのはまさに成仏、永遠の存在になることを願うからである。伊豆山神社の法華梵字曼荼羅は北条政子が頼朝を弔うためにみずからの黒髪で織ったものとつたえているが、中尊はやはり宝塔に安住する多宝如来と釈迦の梵字である。明月院やぐらの二尊なども、ともすればこのシーンを写したものかも知れない【写真1】。


鳥居型の門はインドの仏塔に例がある。中央の柱はシャカ・多宝仏の二仏併座をあらわす区切り。別願寺。



参考・近衛天皇安楽寿院陵(京都市伏見区)。もとは母后・美福門院のための生前墓として創建された三重塔だった。
 京都市・鳥羽離宮跡に散在する白河・鳥羽・近衛天皇の各陵墓は、一般的な塚(末期古墳)や法華堂などではなく、あからさまに三重塔として建てられた。現在は地震などによって失われたり、ちがう形に改装されてしまったが、塔を墓とすることの究極の例なのだろう。鳥羽法皇の場合は火葬さえ拒否しており、入定(即身成仏)との関連も想起される。入定のばあいには座禅を組み印をむすんだまま臨終するのだが、覚鑁はこの姿を五輪塔のかたちそのものだと説明している。

 極楽寺七世・明賢の墓1368からは骨蔵器のほかに舎利容器などがでている。三世・順忍(1265-1326)の墓からは観恵坊という別人の骨蔵器まで合葬されていた。覚園寺祖師塔からは円信というひとが亡き母・道阿の往生極楽のために阿弥陀経を書写した柿経など、他人のための供養品もでた。柿経(こけらきょう)とはお経を小片にわけて書写し、ふつう多人数に供養料を寄付してもらうなどするもので、経木に書いたものは笹塔婆ともいう。仏舎利はふつう水晶の粒であらわされることが多い。

 そもそも「仏になる」というのは並大抵のことではないはずだ。楽園にうまれかわる「往生」でさえ、おまえにその資格があるのか、といわれればその通りかもしれない。いい大人がたあいもなく信じ切れるものだろうか。

 往生、成仏に安易な道、「裏口入学」のような概念をさいしょに称揚したのは中国僧だった。善導(613-681)というひとは「観無量寿経」という、たぶん偽経か低次元の経とおもわれていた短編をもとに、「他力本願」による往生を広めた。無量寿仏(アミターユス=阿弥陀)じしんの誓いによって、誰でも、極悪人でも救われるというこの教えは、もはや哲学でも倫理学でもなく、一縷の「願望」にすぎない。そしておなじ阿弥陀信仰でも、太子の時代と摂関時代と中世とでは、受容のしかたが極端に異なった。道長は「せめて下品下生の浄土でも」といい、親鸞は「だまされたってかまわない、どうせ地獄に落ちる身だ」とまで言い放った。疑問の持ち方が、よりおおきくなるのだ。  


浄光明寺にあった五輪塔。東(発心門)を正面とし、各面でややことなった種字をもちいているのがよくわかる。



伝・冷泉為相墓宝筐印塔(浄光明寺)。背後に多数の塔をおさめたやぐらがある。
 唐では、セックス教団の宗祖にまつりあげられた破戒僧・元暁、義湘など、さまざまな異端、カルトがあらわれた。現地でも弾圧を受け、あるいは後人による神格化や修正をへてより穏当な理論構築もすすんだが、さすがにこれらを日本化するまでには抵抗も紆余曲折もあったことだろう。後白河法皇は「隠すは聖、せぬは仏」と喝破したという(「沙石集」)が、日本で最初にこの妻帯思想をうけいれた明恵上人自身はむしろ生涯童貞だったという。中世の知識人たちは、ごますりや受け売りに囚われることなく、いまよりずっと真剣に宗教にむきあっていた。

 中国の禅宗が理想としたのは老荘の説く仙人、仏教でいえば「阿羅漢(無学=本人にとっては、もはや学ぶべきものがない理想の境地)」のさとりであった。ほんらいは仏弟子をいう低い概念であったが、仏は全世界を支配する皇帝陛下なのだから、下々が語るのはとても畏れ多いとされるようになっていた。宗教はその国の社会を反映し、政治とも不可分にむすびついていたのだ。チベット仏教の周辺国では仏とは明瞭に王者そのものをさした。たとえば西太后(1835-1908)は観音菩薩を自称し、コスプレまで楽しんでいた。

 中世日本社会の特色として、だれもが平等に仏になる、という摩訶不思議な情熱にとりつかれていた。そのいっぽうで天皇も知的エリートである高僧も、地獄に堕ちるものは堕ちるとされた。「北野天神絵巻」では醍醐天皇の無残な末路がえがかれている。冥界や来世という空想の世界においては、革命や民主主義が過激に進行していたともいえる。

 一部の地方には、両墓制といって塚と墓塔を別に建てる風俗がのこっている。板碑とよばれる薄型塔婆にも「逆修」の旨をきざんだものがある。近世の初めには石仏型の墓碑もふつうになり、古いお墓によくみかける。


安養院の石塔群。まるいのが卵塔(無縫塔)。青面金剛と三猿をあしらうのは庚申塔。



極楽寺福田院跡五輪塔。
 写真の福田院塔は極楽寺のむかい、駅前の墓地をのぼるとある。近世式五輪塔(写真4)にいたる過渡期にあたる南北朝ころのもので、りんご型の水輪が特徴的なもの。現在は転倒防止のためなのか上下さかさにおかれ、俗にいう「メタボ五輪」の仲間入りを果たしている。

 「五輪秘釈」ではやはり人の腹にたとえているので、こういう見かたも、あながちまちがいではないらしい。力士でいえばアンコ型というのだろうか、中年の方々には、みるにしのびないという向きもあるかもしれない。


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