トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第35号 


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もちださんの鎌倉リポート No.35(2008年6月7日)



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扇ヶ谷のやぐら群



多宝寺長老・覚賢五輪塔。
 多宝寺という寺はいまはなく、巨大な石塔だけが浄光明寺のはりだし境内にある。山頂の伝・冷泉為相墓宝筐印塔(レポ34)のうしろにある柵が4月中旬の「鎌倉まつり」の期間中だけ、ひらいている。峯続きを道なりに行くと途中からたよりない敷石がつづいていて、尾根のピークをひとつ越えれば崖下にみえてくる。

 かつて忍性塔のひとつとされた五輪塔は、関東大震災で倒壊、篤志家による修復のさい、地輪の下の台座がくりぬかれていて多宝寺長老・覚賢(?-1306)の骨蔵器がおさめてあることがわかり、名前がかわった。忍性塔というのは奈良・竹林寺など7箇所くらいあり、実際に分骨されたのは鎌倉・極楽寺の開山塔をふくめ3つだけ。この塔も弟子の覚賢が最晩年に当寺の開山でもあった忍性(1217-1303)の遺命により計画したのかも知れない。正面の崖下にはうもれた小型やぐらが群集していて、発掘調査された。ただ、見てのとおりそこに下りるのはむずかしい。

 公開日といっても、ここまで訪ねる人は少ない。塔は江戸城の石垣などとおなじ伊豆石(安山岩)でできている。当時、巨大な塔をどうやってこんなへんぴな場所まではこんだのか。

 為相墓塔のうしろのやぐらは、「五輪塔がびっしり詰まったやぐら」の典型を示す。五輪塔はひとりの追善のためにいくつも納めることがあった。レポ17でものべたように、ここは湘南深沢駅ちかくの運動場わきにある陣出やぐら群の泣塔とともに、須崎千代塚(泣塔付近)で玉砕した開基・赤橋一族の供養やぐらの可能性がある。塔はいずれも1350年代のものであり、このころ尊氏は「元弘以来戦没者供養」をやっている。

 ちなみに多宝寺開基・北条業時の子孫にあたる仲時(1306-1333)の部隊も、元弘合戦の六波羅攻めに遭い、近江番場(滋賀県)というところで壮絶な集団自決をとげた。現地の蓮華寺という寺にはおびただしい墓だけでなく、四百数十名にもおよぶ詳細な過去帳がのこっていることでも知られている。


伝冷泉為相墓のうしろのやぐら。



清水寺谷の墓地。
 浄光明寺門前のむかいの路地をてきとうに入ってゆくと墓地がある。そこは清水寺(せいすいじ)ヶ谷といい、かつて小町通りのはずれにある鉄の井から「首だけのすがたで掘り出された巨大観音」がもともとあった新清水寺の跡だとつたえる。北条政子が京都・清水寺を模してつくったとか、そうではなくて、近所にある泉の井にゆらいする「山の井の清水」のほとりに立つ寺にすぎなかったとか、いろんな説がある。

 いま東京・人形町の寺に移された仏頭(鉄鋳)はひとの丈ほどもあり、長谷観音の巨像に匹敵する。だが、そんな大寺院があった気配はない。新熊野(いまくまの)とか新善光寺、今天王寺など、他地方の有名な霊場霊仏を次々に写したてることが中世、都を中心に貴賎をとわずはやっていた。京都には今も数多く残っているし、かまくらにも長谷寺(新長谷寺)、新清涼寺(廃寺)などがたてられたことがわかっている。修行聖が庶民から寄付を募り民間の力でつくったということもかんがえられ、大船観音のように、当初からほぼ首だけに終わったものかもしれない。

 墓地にはやぐらがあり、左奥のものは蜂の巣のように内壁ぜんたいを龕がおおった珍しいものだ。龕のほりかたは伝冷泉為相墓のうしろのやぐら【写真2】ににており、俗に「アパート式」とよぶ代表例だ。現代の墓と大量の小型五輪が同居しているのはなんとも奥ゆかしいが、石材や廃材まで突っ込まれているのは余計だろう。

 ここのやぐら群からは表面に梵字の書かれた鏡(懸仏の代用品)が出たという。石塔の一部は山向こうの旧川喜多邸うらにあった「松源寺やぐら群」のもので、宅地化のさいに掻きだしたものが持ち込まれ、まじっているらしい。


墓地左奥のやぐら内部。



伝・相馬師常墓。
 浄光明寺(泉ヶ谷)の西北の小谷を藤ヶ谷という。コンクリでおおわれた鎌倉十井・扇の井がある付近で冷泉為相が住んだところという。この谷の入り口てまえに相馬次郎師常墓とつたえるやぐらがある。奥壁の龕が切り石で密閉され、室内に宝筐印塔(現在のものは後補)がたっていたことがなどがわかっており、やぐら研究の重要な資料となった。

 相馬師常(1139-1205)は千葉常胤の二男、相馬氏の祖。頼朝挙兵から奥州遠征にかけ活躍した。やぐらがさかんに造られた時期とは時代が合わないが、入定窟として信仰されてきたという。伝統的な浄土教では、苦しまず念仏を唱えて亡くなった人は極楽往生の相を示すとして、尊敬を集めた。端座合掌して亡くなった師常のばあいにも、「往生が決定(けつじょう)した」として臨終を拝みに僧俗がこぞって集まった(「吾妻鏡」)。やがてその亡き骸が、生き仏として封じ込まれているという、そんな空想がうまれていたらしい。 

 ちなみに鎌倉駅西口、スーパーマーケットよりも北側あたりを「千葉地」といいつたえている。今小路の巽荒神にすんでいたとか、かつて同地にあった八坂社を相馬天王といっていた、などの伝えもあり、師常の邸宅は駅寄りにあったことがわかる。

 相馬やぐらのまわりにも多くのやぐらが連続している。柵があって近づけないが、階段のようなものもある。ここは浄光明寺の裏山にあたり、上のほうのやぐらを経て、網引地蔵やぐら(レポ17)のある平場に開いた、やぐらを利用した洞門に続いているのではないかと思う。

 門扉の部分は羨道なのか龕だったのか、よくわからない。この半月型の平場には地盤を切り出した岩壁がめぐっているが、ほかにもところどころ地山の薄い部分が突き抜けてしまっている。「浄光明寺敷地境内図」という古絵図は、傷みがはげしく読み取りづらいが、いちぶに切り石をつんだ塀のようなものや洞門のようなものもえがかれている。往古はもっと「石塀の寺」という感じだったのだろうか。日本三景・松島にあるやぐらもどきの石造物遺構「雄島の穴」をふとおもいだした。


網引地蔵やぐら付近の平場にある洞門(上)と岩壁(下)。



天柱峰ちかくからみた扇ヶ谷。中央が清水寺谷あたり。
 海蔵寺のてまえを右に曲がると清涼寺谷という、やぐらの多い谷になる。家が建て込んでいるため詳細は不明だが5段100穴以上(「市史」)あるらしい。叡尊、忍性らが最初に滞在した釈迦堂があったところという。清涼寺式釈迦像は、律僧の下向いぜんから関東でも崇拝されていて、県下でもっともふるいものは横浜市北部の荏田・真福寺のもの。原像はいうまでもなく京都・嵯峨野にあり、「然(938-1016)和尚が宋からつたえた。

 さて谷奥の民家のわきから細々とした段々をたどってのぼりつめると葛原岡ハイキングコースに合流し、天柱峰にでる。さらにすすむと木の間から扇ヶ谷がみえる。とくに展望台があるわけでもなく、見晴らしはいまいちだ。中央を亀ヶ谷坂がつらぬき、扇の骨のように放射状にひろがる支谷の総称を扇ヶ谷という。浄光明寺のあたりはもっとも東の支谷・泉ヶ谷。さらにその子谷として清水寺谷などが「むかご」のように点在する。

 写真・手前は梅ヶ谷、左の横須賀線ガードは近年すっかり新しくなった岩船地蔵がある付近。日金山というのだろうか、上方に見える小高い尾根のむこうがにぎやかな八幡宮界隈にあたる。


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