トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第37号 


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もちださんの鎌倉リポート No.37(2008年6月21日)



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公方屋敷あたり



虹の橋(中央)。
 滑川の上流、泉水教会の看板が立つ「虹の橋」のむかいがわに、公方屋敷跡の碑がたっている。足利基氏(1340-67)、氏満(59-98)、満兼(78-1409)、持氏ら、代々の鎌倉公方の屋敷跡とつたえる。

 基氏らの菩提寺は花の寺・瑞泉寺で、肖像彫刻や位牌、墓も残っている。だが邸跡は古河公方成氏(1434-97)の出奔からひさしく「亡所」となっていた。地元のひとびとは公方の子孫などがいるうちは無断で耕作などできないとかんがえていたらしく、江戸時代まで手付かずに「芝野」としてのこった。だからすくなくともこの付近が御所の一部であったことはまぎれもない。

 足利将軍家というのはとかく評判が悪く、無用な戦乱が多発するなど統治能力にも欠け、ひるまから酒をあおって浮世離れした生活に終始していたような印象もある。義満(1358-1408)や義教(1394-1441)といった室町将軍の恐怖政治におびえたひとびとは、たびたび鎌倉公方に謀叛をささやいた。またある者は無謀な謀叛を止めようとしたし、公方じしんの横暴に憤懣をつのらせ反旗をひるがえしもした(レポ7・8参照)。

 浄明寺界隈には、鎌倉時代から足利氏の屋敷があったという。最後に建てられたのは持氏の時代。たぶん当時流行の、花の御所のような建物だったにちがいない。「上杉本・洛中洛外図屏風」の描写でおなじみのものだ。数奇屋づくりは花山院の発明、書院造は足利家の発明といわれ、四合院とよばれる原始的なアジア建築の影響からはなれた、純和風建築が確立された時代である。北京故宮の住居棟(18〜19世紀)などと比較すれば、中世日本の洗練された美的感覚がよりくっきりと浮かび上がる。

 青年公方持氏はここで泥酔中、上杉禅秀に囲まれた。禅秀の屋敷は釈迦堂ヶ谷と犬掛ヶ谷にふたつ、あったという。禅秀与党の足利満隆は大御堂の新御堂小路邸から西御門保寿院に陣をはって西側をかんぜんに固めた。公方ははたして、どこをどう通って囲みからのがれ、味方の待つ佐助へ奔ったのか。


公方屋敷跡。この碑は上の写真の右隅の位置にたつ。



御馬冷場。
 碑のある路地をおくに進むと駐車場に利用されたやぐら群がみえる。御馬冷やし場、といわれるやぐらはその左端のものだ。崖面には、いたるところから雫が滴っていた。先日からの雨を吸った山々をめぐる岩盤の裂け目が、このへんにあるのかもしれない。納骨用の大穴として掘られたらしき部分は、晴れてもほとんど涸れることのない水溜りと化している。

 ここはふるくから頼朝の名馬「生月(いけづき)」「磨墨(するすみ)」のための「冷やし場」とつたえ、水溜りを「すそ※したるところ」(※裾=足洗い)と解釈されてきた。かたちは「やぐら」そのもの、横井戸とはあきらかに異なる。状態のわるいやぐらのなかには「馬屍用」になったものもあるらしいし、このあたりが公方時代に駐車場ならぬ馬つなぎ場であった蓋然性も否定できない。

 「平家物語」にもみえる伝説の名馬については、全国的に遺跡が分布している。東京の洗足池には銅像もある。だが鎌倉のこの遺跡には立て札さえなく、あきらかに忘れ去られようとしている。伝説もまた歴史だということが、あたまの硬い学者などには、どうしても理解できないらしい。

 浄妙寺方面へむかう。胡桃ヶ谷の入り口あたりには、だいぶ荒れてはいるが、かなり大きなやぐら穴が連続している。小屋なら入るくらいの大きさで、近寄ってみると天井はかるく合掌した舟底型のように見える。奈良時代の家型横穴墓にしては大きすぎるから転用ではなく、これもまた中世のやぐらの一形式なのだろう。

 胡桃ヶ谷には大楽寺という寺があったが永享の乱で焼け、覚園寺に移った(レポ12)。公方持氏のぬけみちとしては、杉本城とよばれる尾根上の砦に取り込まれた掘割道がある。二階堂と金沢街道を隔つその尾根道のいちぶは、かつて「稲葉越え」という切り通しになっていて、荏柄天神の東から、浄妙寺や鎮守熊野神社の裏山頂部をかすめ、この胡桃ヶ谷につうじていた。胡桃谷の奥はすでに造成地となっているが、そこからさらに東、天園ハイキングコースに合流するルートがまだのこっている。


胡桃ヶ谷やぐら群。



浄妙寺墓地から報国寺、衣張山方面をのぞむ。貞氏の塔はこの土手の下。
 浄妙寺には元弘合戦の直前に死んだ尊氏の父、貞氏(?-1333)の供養塔がある。写真みぎの高台の奥のほうには石釜パンが名物のガーデンテラスとかいう軽食ラウンジがあるが、寺地の最奥にあたるそのあたりに子院の大休寺・延福寺などがかつてあった。観応の擾乱のはてに足利直義(1306-53)が兄・尊氏に毒殺されたところである。直義の顔は、つい最近まで「源頼朝像」として親しまれてきた、あの画像の真の像主とされているので、皆さんご存知のはず。いまではやぐらが数基、のこるだけだ。

 寺の向かい、花ヶ橋をわたると竹の寺・報国寺にでる。ここを宅間ヶ谷という。レポ8に紹介した榎下城の城主、宅間上杉憲清・憲直父子の鎌倉亭があったところで、報国寺もおそらく憲清の父・重兼が建武年間に創建したものと考えられている(上杉氏系図に伝わる説)。建武といえば足利尊氏の代。寺伝にいう「開山・天岸慧広、尊氏の祖父・家時の創建」では時代があわないから、家時はたぶん足利時代になって開基に擬せられたにすぎない、というわけだ。

 家時(?-1284)は天下取りをくわだてたものの、「時至らず」と観念し若くして切腹したという奇妙な伝説を持つ(レポ17)。「難太平記」の解釈によれば、足利家の祖先はじつは源為朝のわすれがたみであって、その霊が「狂気」として一家にひとしく遺伝しているのだという(我子孫にはしばらく霊と成て物くるはしき事おはしますべしと仰せける)。古語では「鬼気迫るいくさ上手」というようなほめ言葉のニュアンスもあったとはいえ、足利一家の陰惨な生き様をおもいあわせると、なんとも不気味なはなしだ。

 報国寺まえをすこし行くと「旧・華頂宮邸」につくが、「巡礼古道」の入り口はやや手前、谷の東側にある。報国寺をみおろしながらコンクリートで固められた法(のり)面をのぼりつめると、道はしだいにふつうの山道となり、ところどころに「庚申塔」と彫られた近世の板碑が土の斜面に埋め込まれている。尾根の頂、左側に1938年発見された金剛窟地蔵やぐらがある。

 ここの天井も舟底型で胡桃ヶ谷のものににている。地蔵は百八やぐら、瓜ヶ谷、唐糸やぐらなどのものと同様、本来の首が欠け、全体がとろけてしまっているために細部はほとんど判然としない。江戸時代、谷向こうの衣張山からやはり地蔵がほりだされ、出世地蔵などとよばれていた。

 華頂宮邸で一息、コーヒーでも飲もうかとまた急な坂をくだる。急傾斜崩壊危険区域、というのだろうか、殺伐としたコンクリの山肌をみるたびに、いずれあの場所も、という思いにおそわれる。開発は止められても、時が壊してゆく風景は、どうにもできない。・・・それにしても、ネットをかぶせてツタで表面を蔽うとか、もうすこし「武家の古都」にふさわしい、ましな工法はないのかとつくづく思う。


金剛窟地蔵。写真1にみえる山の頂付近にある。



鎌倉まつりなどでの公開期間中、華頂宮邸では地域ボランティアによる喫茶コーナーがもうけられる。
 ローマの墓堀盗人によれば、未知の遺跡を発見するには、まず古道の痕跡を発見することだ、という。巡礼古道はかつて盛んだった江戸時代の坂東三十三観音の巡礼道で、杉本寺から逗子・久木の岩殿観音にむかうちかみちだった。岩殿観音は正式には名越の切り通しの旧道跡を逗子がわに下りた地点にちかいのだが、宅間や積善(ハイランド坂下)、大町黄金やぐら付近などからの「間道」も複数あったことが、やぐら群の分布などから逆算できる。

 江戸期には里山はけっこう利用されていたので、いまよりもずっと多くの古道が「そまみち」として残っていたはずだ。当時の紀行文をみると、いまのハイキングコースにあたる藪道を、女の人なんかも、けっこうたくましく歩いている。

 公方持氏が禅秀の手から逃れた道は「いわとのうへの山道をめぐり、十二所にかかり、小坪に打ちいで・・・(鎌倉大草紙)」とあり、これを岩殿越えの山道、と解する説もあるが、それだと十二所のいちがおかしくなる。古文献をめぐるこういう謎はそうかんたんに解決するものではないらしい。


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