トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第38号 


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もちださんの鎌倉リポート No.38(2008年6月27日)



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大御堂あたり



大御堂ヶ谷。
 荏柄天神の参道の手前、大御堂橋をまがって滑川を渡ると文覚邸跡の碑がある。碑のまえの道を田楽辻子(ずし)のこみちという。右はいきどまり、大御堂の跡はすこし左に行ったところで南にまがる。かつて成朝、運慶らの仏像が絢爛たる諸堂を飾っていた。

 南の山の麓に行きて、大御堂あり。新御堂を拝すれば、仏像・烏瑟(うひつ)の光は瓔珞・眼に輝き、月殿・画梁の粧(よそほひ)は金銀・色を争ふ。(海道記)

 大御堂ときこゆるは石巌のきびしきをきりて、道場のあらたなるをひらきしより、禅僧、庵をならぶ。月おのづから紙窓の観をとぶらひ、行法・座をかさぬ。風、とこしなへに金磬のひびきを誘ふ。(東関紀行)

 大御堂川という側溝のほとりに碑がある。せまい谷にはただ崖いっぱいに家があるだけだ。かつて源義朝(1123-60)と鎌田正清(政家)の墓とつたえるふるい五輪塔と数個の礎石が残っていたという。五輪塔は開発でうしなわれ、これに憤る一部住民らのおもいによって昭和59年、あらたな五輪塔が碑の後ろにたてられた。

 鎌倉が鎌倉であるためには、これをつたえてゆく努力が必要になってくる。ほんとうにゆたかな街では、歴史的景観を守る規制や高貴な義務に市民が総意でしたがっている。いっぽうでタリバーンのように、人類の遺産をこわさずにはいられないひとびともいる。歴史や環境はカネでは買えない。権利、権利、とさけぶことが許されるのは、心が貧しいあいだだけだ。あたらしい五輪塔をみて、そんなことをおもった。


義朝主従の墓塔。



大御堂川のほとりに立つ石碑。
 谷になにがあるわけでもない。ひっそりとした家並みが続き、途中からかなりの急坂になっているが、堂はそれより下、たぶん道が左右に回りこんでいる微高地あたりにあったのだろう、とわかるくらいだ。もとは多くの石塔などが転がっていたらしく、葛原岡の日野俊基の墓というものも、みばえを良くするため、明治ころにここから持ってきたものと「市史」はつたえている。

 頼朝は文覚からうけとった父・義朝主従のくびを納めるためにここに寺を造った。首は都の獄吏がさがしたともいうし、義朝に仕えた紺掻(青屋。レポ24参照)がひそかに京都東山・円覚寺(廃寺)に埋めておいたともいう。その寺は生前の義朝と鎌田が父であり主君であった源為義ら、保元の乱(1156)に敗れた源氏一党の首を斬っておさめた因縁の場所だった。

 大御堂には、やがて実朝や政子も葬られたというが、納骨堂形式だったのかその後の記録はまったくない。焼失や倒壊などしたすえに寿福寺など現存の追善墓に分骨されたかどうかについても、なんともいえないらしい。横須賀市芦名にある金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺がその後身ともいうが、「鎌倉時代に移った」とする寺伝にも矛盾があり、移転時期やその実否についてすら、まったくわかっていない。浄楽寺の仏像は和田義盛の依頼で運慶がつくった可能性がつとに指摘されているいっぽう、ほんらいの大御堂は室町時代にもずっとこの場所で細々といとなまれていたようだ。

 合戦の舞台にもなった。観応の擾乱が決着した翌年1352、故新田義貞の遺子・義興(1331-58)という人物が挙兵、初代公方・基氏を一時追い払った第二次「鎌倉合戦ノ事」(『太平記』巻三十一)にかんたんな記述がある。義興は歌舞伎「神霊矢口渡」の主人公にもなり、そのすじではたいへん有名な武将らしい。一発逆転を狙った新田軍は、協力する三浦氏が引き起こした陽動作戦で手薄になった鎌倉の中心部を急襲した。

 公方軍はむだ足をふまされ、三浦から戻ってきたばかりで疲労していた。留守兵は化粧坂・山ノ内をかためていたので、神奈川から朝比奈切り通しを突破してきた新田軍をすぐにはふせぐことはできず、塔ノ辻(筋替橋)をかためて迎え撃つことにした。新田軍は鶴ヶ岡などに旗を立てて対峙を装いながら、ひそかに主力を勝長寿院の裏山に回し、東勝寺や大町にかけおりて背後から奇襲した。「大御堂の上より、真下にぞ押し寄せける」という、簡潔な一行がこれを示している。


現在、この高台には立ち入りできないかも。上の写真を拡大すると鎌倉宮らしきものもみえる。



かつて大御堂谷にあったという小ぶりな石塔。
 大御堂の上、とは祇園山ハイキングコースをさす。東勝寺跡の手前を右に行くと大町山王堂谷にでる蛇腹のトンネルがあり、まいど掃除機のホースにすいこまれるような気がするのだが、ここの真上にちいさな切り通しのあとがある。大御堂への枝道はその近くにあり、尾根を越えてトンネルの両側へ攻めおりる道があったことがわかる。廃道の多くは歴史を刻んでいるが、倒木を積むなどして通行止めになっていて、もう人家が行く手をふさいでしまっていることもある。通行止めは日々増えているようだ。

 杉ヶ谷のおくの道、天柱峰のうらの道、・・・かぞえればきりがない。こどものうちは平気であがった坂も、さすがにいいおとなが民家の裏なんて、というのもある。それにいつまでも田舎ではなく、もうりっぱな市街地なのだ。通報でもされたら身も蓋もない。たとえみどりが残ったとしても、だれも歩けなくなった道はやがてただの藪や林になってゆくだろう。

 高さ規制には京都でも議論があるという。そのいっぽうで、保全林にハイキングコースを復活させようという風致保存会のようなものも、やはり各地に存在している。街の風致をまもるために、努力する人もいればそれが気に入らない人もいる。ここは地価急上昇の赤マル高級住宅地。他人のことなんか知ったことか。そうおもうひとがいても不思議じゃない。だがそんな、ひとりひとりの権利や資産エゴが、やがて積もり重っていつしか街全体をむしばんでしまう。

 私がうまれそだった「世田谷区/目黒区」ふきんがそうだった。よそからやってきて防犯装置付きのコンクリートをめぐらす薄気味悪い金持ちや、あけすけに空を削り盗みとる高層アパートの住人たち。ジモティ(地元出身者)だなどとうそをこき、根も葉もない老舗の「絶品もなか」などをバラエティ番組で得意げに紹介する芸能人。・・・環境をのこしたい、というていどの消極的な「気持ちだけ」では、まず、どうにもならない。


田楽辻子の標識(犬掛付近)。



せまりくる「人気タウン」(東京・世田谷で)。
 空疎な「人気」ばかりが押し寄せてきて、けっきょく再開発の果てに殺風景なベッドタウンになってゆくのだ。乗っ取られたかのようで、けしていい気持ちはしない。乗っ取ったほうの人間も、なぜこの土地に住みたいのか、・・・何の説明も出来ない。かれらはただ、無理にでもそこにすむのが夢だとかステイタスだなどと、ひたすら思い込んでいるだけらしい。カネでふるさとなんか買えるはずもないのに。

 かつてT.モア(Sir Thomas More1478-1535)は「羊が人を食う」と論じてエンクロージャー(土地の囲い込み)を非難した。いまはどうか。孤独なコンクリートの塊が「街」の環境を貪欲に食いつぶしてゆく。こんな心貧しい、シュールな未来はけして東京だけのことではない。


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