トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第39号 


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もちださんの鎌倉リポート No.39(2008年7月5日)



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青磁



干潮の時刻が近づくと、和賀江島の全貌とひろい干潟があらわれる。
 鎌倉の浜によくあがる中世の陶片に青磁がある。青磁とは宋代を中心とする中国の高級陶器で、もともとは官立の龍泉窯を中心とした越州(浙江省)の窯でつくられた。「陶」というのは中国語で土器いっぱんのこと、「磁」というのは当初の主原料である白土(長石)の産地名からきているもので、分類上の磁器ではなく、青磁釉(ないし白磁釉)をほどこした【陶器】、ということになる。

 中国人はかつて、この灰色がかった鈍い青緑の色目に中国翡翠(青玉、せいぎょく)の美しさをこめた。つまり青磁は青玉、白磁は白玉を模している。まず粘土でつくった繊細な器のうえに化粧白土(磁土)を塗る。そのうえに鉄分を薄くふくんだ透明な灰釉をつやだしにほどこす。通常、赤黒くなる鉄分が、還元炎という一定の温度条件で焼かれることによりクロム・ブルーに発色する。基礎技術自体は漢代からある。しかし玉(ぎょく)のもつつややかなうるおいを充分に表現し、かつ大量生産に至ったのは北宋時代になってからだ。

 中国人がめざしたのは、ただ青いだけではない、あくまで高級玉器【注】そのものの色味だった。灰釉が多いと青味がとけて流れてしまい、地色が透けて均一にならない。温度条件が悪いと部分的に赤味がさしてしまう。こういうわけで、真の翡色(秘色とも)に至ったものだけが最高級とされ、その他は安物、ないし失敗作となった。

 しかし日本人は古来から青磁よりも、三彩とか緑釉など、別系統の焼き物のほうが好きだったらしい。古瀬戸・常滑など、国内でつくったものを見ても青磁の写しなんかより、釉薬がまだらに荒々しく流れるもののほうが圧倒的に愛されてきたことがわかる。

 輸入品としても、青磁は質より量、ほとんどが官窯以外で作られた普及品であり、小町屋の遺構などからもふつうに出土しいる。それにたいし、天目や華南三彩、交址、のちには朝鮮産井戸茶碗など、中国人が雑器として片づけていたまだらな風合いをもつものをわざわざ取り寄せて選別し、すぐれてできの良いものを宝物とするという独特な好みがあった。少数で貴重だったのは、こちらのほうである。


鎌倉時代の築港遺跡、和賀江島(奥)。満潮時にはほぼ水没。



突端までは約200m。無数の「漬物石」のうえを遠くまで歩くのはむずかしい。
 この美意識の違いは、翡翠にひみつがあるらしい。中国ヒスイは軟玉といって彫刻しやすいやわらかな石。中国の玉というのはすべてこの軟玉のことで、中国だけで賞玩される独自の石器であり、世界でいっぱんに宝石といわれる貴石類にくらべ原石もはるかに大きく、容易に均質な色味を切りだすことができる。いっぽう、糸魚川を産地とし、縄文時代から勾玉の原料などとして親しまれた日本のヒスイは硬玉ともいい、原石固有のまだらな輝きをもつが、ダイヤモンドに次ぐ硬さをもつ、正真正銘の宝石ヒスイ。古代における本物の宝石ヒスイの加工技術は日本と中南米にしかなかったという。

 中国人は陶器にも、人工的に磨き出された軟玉のつややかなうるおいを求めたのに対し、日本人はより自然な、希少鉱物のつくりだすアバンギャルドな風合いを愛したともいえる。平家納経や本願寺本三十六家集の料紙をみれば、施された色の渦や、まき散らされた箔のもつ絢爛な光の雲に日本独自の感覚が凝縮されていることに気づくはずだ。

 さて、天目という、鉄彩を塗りこめた黒釉の茶碗にできたヒョウ柄のスポットが、偶然ラスター彩のように金属的な虹色を呈したもの、これを曜変天目という。室町の将軍や大名たちは、これを発見し、いつのまにか宝器としていた。まるでパウル・クレーの絵をみるような、夢幻的な美しさをもつ。ほんらいは中国南宋時代、福建省あたりでつくられたとされる雑器の鉢の不良品だった。日本に名品がたった三個、それいがい、当の中国にさえカケラひとつのこっていない。現地ではそういうものを発明したことじたい、気づかれずに終わってしまったらしい。

 この天目という漆黒の茶碗は、青貝(螺鈿細工)をちりばめた天目台とよばれる精密な器台のうえに、なにか希少な鉱物や高価な水石(観賞用の石)のように置かれ、床の間や違い棚に「書院飾り」のアイテムのひとつとしておごそかに展示された。人工美を尽くしたきらびやかな台のうえで、天目はもはや人智を超越した自然美の極致、世にふたつとない宝石、といったあつかいだ。


誰かが干したヒトデ。



埠頭や防波堤を構成していた玉石がくずれ、敷き延べられている。かつては土丹(クズ石)を詰めるなどして固めてあったのだろう。
 やがて日本人は、志野や樂茶碗のように、意図的に荒々しい景色をつくり、わびさびを込め、茶陶として尊んだ。超絶技巧的な絵付けや装飾を施す伊万里・鍋島や真葛焼のようなものが開発されてもなお、それらは主に景徳鎮に対抗する輸出用の高級磁器(または鑑賞用陶器)であって、日本人は茶陶をその上においた。どんなに技巧的でも、再現可能なものは職人芸にすぎないという感覚があった。

 景徳鎮、というのは明代にさかんになった染付磁器のことで、窯ちかくで採掘される高嶺(カオリン)という可塑性の磁土が決め手となり、全体がガラスと土器のあいのこのような、いわゆる(分類上の)【磁器】が生まれた場所でもある。イスラムの紋様がとりいれられ、呉須(コバルト)によって幾何学的な花紋などが描き詰められる「青花」は元代ころから試行錯誤がつづけられた。

 絵付けがはやったことで、雲鶴・牡丹などの単調なレリーフを施すていどだった青磁の魅力は、中国においても急速に過去のものとなっていったようだ。イスラムからは鮮やかな青に発色するコバルトをもちいた瑠璃椀などの先進的な技法も伝わり、いまも灰皿なんかによくみかける、粉青色という鮮やかなみづいろの青磁・青白磁なども大量に出回っていった。宝器としての最盛期は北宋の時代(11世紀・摂関期に相当)とされるが、鎌倉からは北宋の龍泉窯はまったく出ていないらしい。南宋から元・明にかけての青磁片などは、マンネリ化以後の日用品にちかいものだといえる。

 青磁は中世遺跡にはたいてい出土するが、あるいみ忘れられた陶器でもある。すべてが希少で高価だなどと都合よく混同されることもおおい。たあいもない模造品も多く、みやげものとしてつくられた中国製の安物が高麗青磁などとして売られることもあるという。また博物館レベルでも、「伝・初期高麗青磁」が輝州窯など中国・北宋代の民窯のものと判明する事例などがあり、しろうとには到底手を出せない分野ともいわれる。

 伝世品としては、建長寺蔵・北条時宗奉納(1280)とつたえる牡丹花文貼り付けの大花瓶などが風入れのときなどに出品される。状態はよくないが、戦乱のあいついだ鎌倉にほぼ完形のままのこされたという意味はおおきい。また、出土品の陶片は年代推定はもちろん、断面から技法や産地(窯)なども推測できるので、美術史理解にも役立っている。たとえば極楽寺宝物館の左隅には開山塔あたりからでた各種陶片がならんでいたりする。


建長寺の「風入れ」。毎年11月3日前後に開催される。抹茶つき。



リサイクル文庫でただでもらった壷の業界誌の例。
 現在は拾う人が多いので、浜をちょっとほればだれでも必ず見つかるというものではないし、まぎらわしい「いま物」の青磁もまじっているようだ。遺跡から出ていない種類のものは「?」。ほんものかどうかは、博物館や骨董店、美術書や骨董の業界誌などでできるだけ多くの情報を得ておくひつようがあるのかもしれない。



【注】 玉器は原始時代の祭祀用の石器をルーツとする。日本ではそのまま原始信仰としておわったが、中国では宝器や世俗的な美術品として発展、重んじられていった。「※夬」状耳輪は縄文遺跡からも多数出土しているが、「完璧」ということばの語源である円盤型の宝器「璧(へき)」はあきらかにこの耳輪のかたちから進化しており、北京五輪のメダルにもあしらわれるという。日本の三種の神器の一つ「玉璽」は彫刻された中国風の玉器・印璽の類ではなく、古代ながらの勾玉をいうらしい。
※「夬(けつ)」は当て字。正確には王偏がつく。C字型の帯玉。


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