トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第4号 


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もちださんの鎌倉リポート No.4(2007年9月11日)



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やぐらとは何か・4



寿福寺・北条政子やぐら。羨道がよくのこる。
 やぐらの造営時期は鎌倉中期後半からほぼ永享の乱1438ころまでである。これは納入された五輪塔などの記年銘によるものであるが、終末期の密閉式やぐらにのこる史料が多く、全盛期にあたる前期の礼拝型巨大やぐらにかんする肝心な資料はほとんどのこっていない。有名なものでは、神武寺弥勒窟にきざまれた1290年が古い例であり、そのほかは出土のかわらけや浮き彫りされた五輪塔の形式編年などから推定されるにすぎない。



明月院やぐら。めずらしい二尊形式。中央の塔は寺を中興した上杉道合の墓と伝える。
 退耕行勇らにより百八やぐら付近で伊賀朝光の葬送および追善等が行なわれたという「吾妻鏡」などの記事(1215)は格段に古く、やぐら起源をかんがえるうえで大きなポイントとなっている。いまのところ、そこまで遡る出土資料はないようだ。

 サンスクリット文字の装飾などから、やぐらを広めていったのは台密・東密を兼行した禅律の僧であることはほぼ明らかである。律宗中興の祖・叡尊が新清涼寺釈迦堂に来たのは1262年。有力者の葬送記事や前期やぐら群の位置からみると禅僧の役割も相当大きかったと思われるが、具体的なことは何もわかっていない。また、やぐらが密集するのは鎌倉周辺と(当時権門の直轄領があった)房総だけのようである。



白鹿洞。円覚寺落慶供養のさい、円覚経を拝むため大量の白鹿があらわれたという。
 八幡宮の西、巌堂は頼朝時代からあったことが「吾妻鏡」にみえるが、当時どのような堂であったかなど、くわしいことはわかっていない。また、円覚寺の創建時に山門付近から円覚経がほりだされたことがあったという。しかしやぐらとそのルーツであるふるい窟堂や経塚などとの直截的な関係を示す文献や出土物はない。飯島のやぐらから修験道とのつながりをおもわせる大量の鏡や懸仏が出土した例があるが、いまだ経典や舎利容器はほとんど確認されていないようだ。



参考資料・臼杵ホキ石仏T群4龕、地蔵十王窟。
 大分の臼杵磨崖仏群では十王岩などと共通のモチーフをもつ地蔵十王窟(平安末期)が注意され、またこの群落の各本尊の足下には百八やぐらや日月やぐらの納骨龕に酷似した円孔や方孔が彫りこまれている。ただし、ここでは経や願文を納めたものとされる。十三仏信仰が盛んだった奈良の十輪院石龕にも地蔵十王および梵字等の信仰がうかがえ、『沙石集』にもすでにその名声が記されている。



参考資料・奈良春日山地獄谷聖人窟。
 律衆とのかかわりも指摘される奈良春日の穴仏石窟には二尊形式の如来が刻まれ、保元二年1157の墨書銘があるという。春日山地獄谷聖人窟の本尊は弥勒かといわれ、付近は風葬の地だった。また、結縁のための納骨が盛んに行なわれた元興寺極楽坊など、中世に庶民信仰が盛んだった寺院には、庶民が納めた籾塔や千躰地蔵、柿(こけら)経類など、周辺史料が多く残っている。

 やぐらそのものではないが、日本各地には姉、または妹ともいえる石窟史料が数多く残されており、DNA鑑定のような比較検討によって得るものも大きいのではないかと考える。


来月は「海の果て」1・2の予定です。


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