トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第40号 


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もちださんの鎌倉リポート No.40(2008年7月12日)



No.39
No.41



たちんだい



たちんだいの下の平場。
 北条政村の屋敷跡のいちぶを「たちんだい」という。「館(たち)の台」ということらしく、なんらかの施設があったにちがいない。高台からの見晴らしは木々もあっていまひとつだが、途中からみおろす景色は、どこか砦のようだ【写真2】。

 そこは駅から市役所まえの通りを「旧大仏坂・入り口」にむかって約20分ほど、トンネルをみっつくぐったあたり、「国指定史跡・北条氏常盤亭跡」の説明版がある湿地帯の一段奥で、テニスコートが余裕でつくれるほどの広い台地になっている。さきごろ「タチンダイ」と達筆でかかれた木の看板が東の山すそに立てられたが、仮に看板がなくなっていても、写真右の尾根伝いをゆくみちを道なりにたどる。下の湿地をまっすぐ向かっても靴がよごれるだけ。



尾根みちからバス停のある車道側をのぞむ。
 ここは桔梗山からのびる尾根に囲まれた谷で、東は大谷戸・佐助稲荷、北は梶原にあたる。常盤側は自然保護林「常盤山緑地」になっているそうだ。第六代将軍・宗尊親王(25)追放の密談が練られたという北条政村の山荘跡は、車道北側に沿って連続するいくつかの支谷に広範にいとなまれていたらしい。たとえば法華堂跡というのは一門の墳墓堂があった地なのであろう。硯の井とつたえるものもあった。説明版に一帯の地図がある。ただ私有地もあって、入れる場所は限られる。また中央の谷戸「御所ノ内」というあたりはほとんど宅地で、指定外ですらある。

 政村(1205-73)は執権義時の四男(陸奥四郎)。嫡子泰時の異母弟で、母は伊賀氏(伊賀守佐藤朝光のむすめ)。伊賀氏は夫・義時を毒殺した(明月記)ともいわれ、わが子・政村を執権にするため、一条実雅なるものを将軍に就けようとした伊賀氏のクーデター未遂(1224)でもしられる。ただ鎮圧後、与党への処分はなぜか寛大なものだった。

 長兄・泰時の死後、四代将軍九条頼経をめぐる宮騒動、宝治合戦1247などでまず次兄・朝時の名越家が没落。やがて泰時・経時・時頼ら代々の執権を助け北条家の大長老となった三男・重時(極楽寺一門の祖・連署)も天寿をまっとうして亡くなった。その3年後、幼くして得宗をついだ時宗(泰時のひまご、1251-84)が成人するまでの後見人ということで、政村(60)は急遽、執権の座につく。果報は寝て待て、ということなのだろう。



たちんだい。切り株のベンチのようなものも。
 当時をしのぶよすがは、あまりない。発掘はなかばだが、保存が図られているので、追々いろいろなことがわかってくるかもしれない。ちなみに礎石に柱を置く瓦葺建物はまだ忌まれていたため、重量感のある仏堂や唐ふうの律令官衙ていどにしか使われていない。清少納言が「職の御曹司」をきらったのも、瓦葺でたまらなく蒸し暑いからだと言っているし、長岡京などでは寝殿の脇殿まで礎石・瓦をつかいながら本殿には避けている例がある。中世前期まで、格式ある伝統的な【住居建築】にはきまって掘立基礎・桧皮葺がもちいられていた。ただ、遺構としてはきわめて残りにくいのだ。

 めぼしい出土物としては金箔張りの銅の水滴と、サイコロがある。水滴は文房具の水差しのことで、北条一族は勅撰集に入選するほど、宮廷和歌のたしなみがあった。政村も『新勅撰』などに40首ちかくをのせており、相当な腕前の持ち主だった。サイコロは骨製で双六(バックギャモン)につかったらしく、邸敷地内の町屋に住んだ家人・下人たちがもてあそんだもののようだ。八幡宮など別の遺跡からは、古代将棋の駒や碁石なども見つかっている。

 「徒然草」には、中書王(将軍の宮宗尊親王)の蹴鞠会で雨が降り、毬庭がぬかるんだので、ある男が機転を利かせ、大量のオガクズを車いっぱいにはこんできて撒いた、というエピソードがある。故実(都のしきたり)とはちがう、と兼好はひがんだ見解を示しているが、それだけのオガクズがあるということこそ、関東の財力と景気の良さを表していたことを見逃すべきではない。井戸枠や溝の護岸にまで、板を贅沢に使っていたことがわかっている。

 政村はふだん、幕府近くの「小町の宿所」にすみ、広大な山荘が活躍するのは宴会などの晴の儀式だけだった。1263年2月8日、将軍の宮(22)をむかえた大歌会について、十二巻本『北条九代記』はつぎのようにつたえている。

 「弘長三年二月に、北条相模守政村が亭にして一日千首の和歌の会を興行す。将軍宗尊親王御幸まします。この君、和歌の道に長じ給ひ・・・常に諷詠、吟哦(ぎんが)の窓を離れ給はず。政村も政務の暇(いとま)、数寄の道とて好まれける故にこの御会を催され、題を探りて懸物を置かれ、連衆十七人、辰刻(朝8時)より酉刻(ごご6時)に及びて千首の和歌を詠畢あり。夜に入りて酒宴あり。将軍家、興を尽して還御なりけり」。

 宗尊将軍(1242-74)は後嵯峨院の第一皇子。五代将軍九条頼嗣の失脚をうけて初の親王将軍となった(1252)が、のちに自邸での歌会にことよせてクーデターを図っていると疑われた(1266)。親王追放の密談もこの常盤亭でおこなわれ、親王のおさな子・惟康王(1264-1326、のち親王)を亭に確保、やがて第七代将軍とした。都に戻された父親王は出家し、むすこの命運も見届けることなく、寂しく早世。時代の光と影を象徴するできごとだった。


最奥にあるやぐら群。一段目はみな天井近くまで埋もれている。



龕のようなやぐら。
 武家の邸宅でおこなわれた酒宴については、足利義氏(1189-1254、時政の外孫)が自邸に時頼を迎えた時の献立というものが「徒然草」にのこっている。一献、打ちアワビ。二、えび。三、かいもちひ(そばがき)。海老はこのごろ鎌倉エビともいわれる伊勢エビ。また、貴人の膳に「かつを」という魚が供される、都では考えられないことだ、といっている。そこは太平洋に面した海の都の強み、鯉のあらいや鮎ばかりの宮廷とは風土がちがった。干物の座などもあり、むかしは長期保存できるよう固く干して各地に販売、するめなども水で戻して調理していたようだ。

 江戸時代までかつおは江戸の最上物で、まぐろは下魚だった。いまでいう「三崎のまぐろ」のような、地域のブランドですらあった。そういえば、西行(1118-90)の家集「山家集」というのに、瀬戸内の漁村のさまがくわしく描かれている。このひとはいちおう坊さんなのに、牡蠣だとかハマグリ、オキアミにいたるまで海の幸にはたいへんな好奇心を寄せた。鎌倉をたずねたさい、頼朝はかれに銀の猫をプレゼントしたというが、ただ、何を食わせたのかは記録にない。

 中世を通じ、囲碁の最中に斬られる者、酒宴の最中に急死するものも少なくなく、わたしたちが考えるほど優雅なくらしでもなかったことは、たしかなようだ。はでに遊べばひとの恨みも買いやすい。内輪の酒宴(時頼と大仏宣時)では小皿についた味噌でのんだ、などのつましい挿話もある。宴会で大量に用いた料理のあまりは「取り食み(とりばみ)」といって家臣などに分けるきまりだが、それでものこった皿だとすれば、「ナントカ女将」もびっくりの節約ぶりといえよう。ただ、このはなしを伝えた大仏宣時(1238-1323)はのち出世のために佐介時国を殺させたりもしており、あながち枯れた人物でもなかったようなのだ。

 谷々にはやぐらも多く、たちんだいの奥にもある。ふつうは羨道より石室のほうが大きいものだがここでは逆で、全体が龕のような形をしていてる【写真5】。上部に棟木をさしたような方穴と切妻型の彫り込み、下部には石段のようなものがえりつけられているところからみて、龕には社殿を模したような扉か蓋がすえつけられていたとみられる。

 谷谷を城のようにみたてる城館形式を「殿谷(とのやと)式」というらしい。のべたように谷戸の奥の尾根筋は佐助・葛原につうじているし、一向堂にあるしにせのレストラン「樹ガーデン」からもトンネル上の大仏ハイキングコース(鎌倉城の外郭線)に上がることができる。中央の谷戸「御所ノ内」の真向かいには「仲の坂」という坂が南にのぼっている。これは「旧大仏坂」に合流する古道のなごりだ。いずれも鎌倉に侵入しようという敵の通り道になる場所である。

 旧大仏坂の入り口は八雲神社前で左折してすぐ、火の見下バス停(北側)わきの裏路地にある。現在、この古道は登り口にあるみごとな切り通し(レポ25・27)をへて仲の坂住宅あたりで「通行止め」になっていることがおおく、そこをでると造成地を経て常盤亭のところにもどってくる。大仏ハイキングコースの端にある、コンクリの石段へ合流するには、よく晴れた「道のいいとき」を見計らってゆくしかない。


御所ノ内の西の谷戸にある少し大きなやぐら。羨道の庇を前室のように大きく取る彫り方はたちんだいとにている。



大谷戸から常盤へむかうトンネル。
 政村の死後、常盤邸は外孫・時範(1264-1307、極楽寺一門)がついだらしく、あいかわらず歌会がひらかれ、常盤(常葉)流という家名がうけつがれている。

 史跡に指定された谷々のうちでもっとも西側の、円久寺裏手の谷間は「殿入」とよばれ、極楽寺一門の北条義政(1242-81)の邸跡とつたえる。政村との関係は不明だがやはり和歌が得意だったといい、政村の引退で連署にまで出世しながら1277年出家し突如、出奔(36)。善光寺もうでを装いながら信州・塩田の庄にひきこもったため、「所帯、収公」(二巻本『北条九代記』)とあいなった。塩田北条氏については「鎌倉好き」のKIさんのレポートにくわしい。邸は名越にあったともいう。

 現存する考古資料や文献資料が、すべての謎を解き明かすわけではない。陰謀、暗殺、追放、逃亡、誅戮があいついだ時代の細部は、いまだ解明されていないことのほうが多いようだ。


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