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もちださんの鎌倉リポート No.41(2008年7月19日)



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歎異抄



鎌倉の外郭に位置する常盤の里。最奥が一向堂跡。
 一向堂というところは、親鸞(1173-1262)のまご唯善(1253-1317)のすんだ草庵の跡とつたえる。鎌倉には真宗のてらが極端に少ないが、ここもほとんどあとかたもない。一向堂という名の堂は、由比ガ浜にもあった。大仏や光明寺のような浄土系の大寺院いがいにも、庶民的な草堂や念仏専修道場はいくつもあったはずだ。

 一向衆とは、念仏だけを「ひと向き」におこなう諸宗派のことで、真宗の発展以前には空也上人のながれをくむ一遍の時宗(じしゅう)など、さまざまな流派をまとめて称した。浄土系としては他に、大仏朝直らの帰依をうけ絶大な勢力を広げるに至った記主禅師良忠(1199-1289)をはじめとして、忍性らの真言浄土、京都大原の良忍(1072-1132)がおこした融通念仏に似た派閥もあった。鎌倉時代には真宗はむしろ地味な一派だった、ともいえる。

 中世のひとびとの心を捉えた専修念仏とはなにか。ここでは、親鸞の直弟子で唯円というひとが鎌倉時代の布教のようすをルポルタージュ風にしるした「歎異抄(たんにしょう)」を要約してみた(※@〜Rの数字は原文にある章段)。

【序文】親鸞上人の口伝が正しく伝わっていないのは、後学たちの迷いのもとである。そこで記憶のかぎり、しるしておこうと思う。

【口伝】 @親鸞「阿弥陀仏に助けていただいて、はじめて往生できる。そのために念仏するのだ。そう信じさえすれば、ほかには何も必要ではない。Aわざわざお訪ねいただいて恐縮だが、私は物知りではない。ただ法然上人に教えられた念仏を信じているというだけだ。もし騙されていたとしても、どうせ地獄に堕ちる身であり、後悔などない。信じるか否かは、どうぞ皆さんのご自由にしてほしい。


「善信上人絵(模写)」にみる親鸞(右のまゆげの人)。夢のお告げを聞いている。



浄土宗の第三祖・記主良忠の廟(光明寺裏山)。法然の孫弟子で浄土宗の主流・鎮西派の巨頭。
 B善人が救われるというなら、悪人が救われるのは当然だ。なぜなら「救いのないものを助けよう」というのが阿弥陀様の願いだからだ。C善をおこなうにしても、念仏して往生し、仏に生まれ変わってからするほうが完全ではなかろうか。D亡き父母を弔うにしても、まず自分が念仏し仏になってからしたほうがいい。

 E念仏衆が、自分の弟子、他人の弟子、などとこだわるのは言語道断のあやまりだ。往生は阿弥陀仏の力によるもので、われわれ僧侶の力ではない。Fもとより念仏にはいかなる障害もないものである。G自分の考えでする「行」も「善」もない。いっさい阿弥陀のお力によるものである」。

 H唯円「念仏を行なってすぐにでも浄土にゆきたい、と心から思えないのはどうしてでしょう」。親鸞「それは私も同じだ。往生を心から願えないのは私たちがばかだからだろう。しかし阿弥陀仏はこのような愚か者を救おうとしておられるのだから、かえって頼もしく思わなくてはならない」。

【異説への嘆き】 I親鸞上人は念仏はりくつではない、とおっしゃっていた。上人がご存命のころ、私とともに上京して学んだはずの仲間たちは、同じ教えをきいていた。なのにいま、いわれもない様々な異説が横行している。J「おまえたちは阿弥陀の本願のみを信じて念仏するのか、念仏の作善のみを信じるのか」などと学のない他人を問い質してとくいがる手合いもいる。K経を読まないと往生できないという説もまちがっている。阿弥陀はむしろ「できない人」を救うのだ。そんな「他人をそしり、おとしめるような学問」に信心はあるのだろうか。

 Lばかも利口も、前世からの縁、にすぎない。親鸞「唯円よ、往生のためならばひとを千人殺せるか。できるはずもなかろう。縁とは生まれついたもののことだ」。本願誇り※を禁じたのもそういう意味からであって、けして罪そのものが往生の差し障りになるからということではない。漁師とか、狩人とかが、宿命にまかせてつくる殺生の罪まで排除するのはおおきな間違いだ。

(※悪人往生に慢心し、いわれもなく善を敵視する無用な行為)


安養院の地にあった名越派・善導寺は諸行本願義・一念義をたて、専修念仏とは真逆の浄土信仰に影響力をつよめていた。



良忠が開山に迎えられた佐介・蓮華寺跡。執権経時の菩提寺で、のちに光明寺【写真下】として移転。
 M念仏は罪を消す、という説もある。しかし、いちど阿弥陀を信じた瞬間に往生は決まったことであり、念仏という、日々の「じぶんの行い」で罪を消さなければだめ、ということではない。N念仏した瞬間に成仏する、という説も誤り。さとりは往生ののちにひらけるものだ。

 O信心があれば、悪い行いもしぜんと反省してゆくはず、という説もある。これもまた「善人のみが往生する」というさかしらから生まれた説法といわねばならない。P信心の足りないものは仮の浄土に生まれはするが、最後は必ず地獄に堕ちる、という作り話を説くものもいる。根も葉もないことだ。Qお布施の大小で、大仏にも小仏にもなる、というのも作り話。そもそも存在を超えた仏に大小などないからだ。

 R親鸞「かつて法然上人に学んでいたときのことだ。私と上人の信心はひとつだ、と言うと、他の弟子からの反論が相次いだ。もちろん法然上人は、仏からたまわった信心はただひとつである、とおおせになった」。しかし、人ごとに信心のかたちは違うというのが現実らしい。

 親鸞「阿弥陀仏の願いは、ただ私ひとりのために存在する。そうおもえば、なんともありがたい」。つまり、善悪正邪の差別などというものは現世の幻にすぎず、個人にとって、ほんとうはなにも関係がないのである。「念仏だけが真実」、そうおっしゃった。なのに、ひとびとが信仰のことで言い争うのは実に悲しく、みぐるしい。老い先短く、知恵者でもないわたくしが、わずかに記憶をたどって書いてみたのは、ひとえに、このためである。(「歎異抄」終)


親鸞の子・善鸞は成功した浄土僧のまねをして法を曲げ、父に義絶された。著者・唯円が口伝を受けたのはそのころという。



トンネル前、左にある金網のおくの資材置き場が堂のあった地だという。トンネル右が「樹」。
 真宗という名はもともと法然がとなえたもので、とくに親鸞派をさすものではなかったが、現在の宗派名は明治時代に一向宗から改名したものという。親鸞の晩年を看取った末娘・覚信尼(1224-83)は唯善の父にあたる後夫・小野宮禅念とともに京都・鳥辺野大谷に父・親鸞を葬り、本願寺の基をきずいた。しかし唯善は覚信尼にとって嫡子嫡孫にあたる覚恵・覚如(1270-1351)父子との相続争いにやぶれ、東国に下った。訴訟で幕府にたよろうとしたのかもしれない。

 唯善の師は河和田(水戸)の唯円(1222?-1288?)という。一説に「歎異抄」の著者・唯円は別人で、唯善とともに失脚した前者の唯円の死といれかわりに上京し、若い覚如に教えをたれた鳥喰(常陸太田)の唯円なるものが著者であろう、ともいう。覚如編集の「口伝抄」に本書と酷似するぶぶんがあるからだ。ただ「慕帰絵」では覚如に教えたのをはっきり河和田の唯円と記しているし、実は同一人、という見方もある。

 親鸞直々の口伝は妻の「恵信尼消息」など数すくなく、「歎異抄」は本願寺において他見無用の秘伝の書としてつたわったほど。しかしこれとおなじ教えが一時期、唯善をつうじて鎌倉にひろまっていた可能性はなきにしもあらず、のようだ。


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