トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第42号 


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もちださんの鎌倉リポート No.42(2008年7月28日)



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百八やぐら群



「阿弥陀三尊21」の梵字のわきにある地蔵龕。下から2段目を南、「白月輪20」のとなりの窟。
 百八やぐら群は覚園寺の張り出し境内にある。かつては裏山から道が通じていたが、寺側の谷ぜんたいが封鎖されるにあたり、尾根向こうのふかい藪の中にのこされた。

 いたずらをする不心得者には容易に見つからないように、5、6ヶ所あるいりくちには何の表示もなく、藪が覆っている。原則非公開だが、ほんとうに興味のある人に対してはひらかれており、西尾根をとおるハイキングコース【図2】などからほんのちょっと入ると、だんだん畑のようになった虹線状の通路がみえてくる。やぐら群は4〜5段、部分的には最大で7段にもおよぶ。

 けものみちは腐葉土でややふかふかしているうえ、一部が細くなっている。しかし通路をきちんと探し当てれば、がけや土手を上り下りするような危険な場所はない。西北隅にある目印の団子窟60(※「市史」番号第60穴、以下同じ【注】)まで、はるばる山をのぼるのが一苦労というだけのことだ。ちかくにベンチなどはない。

 広義の百八やぐらは通称「法王窟138」や覚園寺側に散在する小群もふくんでいるが、大半は杉ヶ谷の最奥にあたる杉ヶ谷群に集中している。

 昭和のはじめころまで鎌倉のやぐらは調査がほとんど進んでいなかったため、きみのわるい石塔などを嫌い、宅地開発のさいにやみくもに掻きだしてしまうこともあったらしい。そうでなくとも、骨壷に使われた常滑の壷などを目当てにした盗掘や、石材を茶庭の道具に転用する目的などでだいぶ荒らされた。調査が済んでもなお、無知ゆえのいたずらがあとをたたないため、管理できない場所にあるやぐら群は入り口をふさいでしまったり、あえて人目につかないよう、放置されているのだとおもう。

 昨年、最新の図面も公開されたが、こういうわけであまり親切な記述はない。善良な市民にとっては、なんとももってまわった言い草かもしれないが、ぜひともお含みいただきたい。


やっつけでつくった地図。



落盤が目立つ「梵字龕15」(左)、「大梵字17」(右奥)。最下段、梵字窟11のところの落石をこえるとみえてくる。
 杉ヶ谷群のやぐらは、もともとふもとの二階堂永福寺に関連するものと考えられる。永福寺は弘安三年1280の大火で衰退し、室町期に焼失1405ののち、ほぼ廃寺となった。杉ヶ谷は地図で見るよりせまい谷で、やぐら群の東尾根からかつて登っていた形跡があるが、いまは尾根先端が切られているために通行できない。この尾根道はまっすぐなうえ凹凸のない穏やかな坂で、もし通行できれば「大梵字やぐら17」への一番の近道になるだろう。

 下から谷をあがってゆくと、ちょうどその尾根先端のところで行き止まりとなり、その左に朝鮮石人のある青屋根の邸宅、その垣と尾根とのあいだにせまい沢がある。たぶんその奥はやぐら群の崖下から梵字窟11付近にあがるべつの廃道につうじているのかもしれない。なお尾根の右にはいぜん廃屋があり、さらにべつの廃道がハイキングコースに上っていたが、これは百八やぐらよりひとつ東側のべつの尾根筋にあたる。

 また、永福寺の僧坊があったところでいま造成地になっている西ヶ谷からも西ヶ谷山頂やぐらをへて西尾根にむかってあがる道があったとかんがえられる。現在の道は覚園寺総門跡の庚申塔から平子やぐらをへて西尾根に上がるルートで、途中にちいさなやぐら群や切り通しがあるから、これもやはり古道の一部なのだろう。

 ほとんどのやぐらは杉ヶ谷の∩字谷の内側に沿ってあるいは東向き、あるいは南向きに開口しているが、団子窟のぶぶんは岩壁がくねって外向きにひらいている。広義の百八やぐらは杉ヶ谷の∩字谷ばかりではなく、覚園寺側の谷(平子谷)の奥を経て建長寺の東北隅・回春院境内最奥のやぐら群(朱垂木やぐら群)にまで連綿とm字状につらなっている。

 覚園寺がわの小群は境内の平地からはずっとはなれ、法王窟のがけ下の林の中にまばらに散在する。ご年配の方にはなつかしい「山渓カラーガイド20 鎌倉〜歳時記〜」1969には朱垂木やぐらから団子窟にむかう今とは違うハイキングコースがのっているがそれが古道で、現在バリケードと塀で封鎖されている。ただ資料を見る限り、閉鎖を惜しむほど格別めずらしいやぐらがあるわけではない。いぜんのレポート(1・2・3・10・15など)で掲載したものはすべて杉ヶ谷群で自由にみられるものばかりだ。

 なお仏師・朝祐の逆修五輪塔があった「彫り出し地蔵窟2」は平子がわの山中に、上述の群落とはべつの場所に孤立して存在しているという。これは私も写真でしか見たことがないが、神秘はちょっとくらい、のこしておいたほうがいいのかもしれない。


天園ハイキングコースにある「法王窟138」。写真の石段の上に弘法大師像の親玉や通称「ゴエモンの墓」などがある。



「大五輪43(右)」ふきん。2段目東の奥。外側が埋まり、降雨時に水が溜まって風化がすすんでいる。
 さて、百八やぐら(杉ヶ谷群)が覚園寺の持(もち)になったのはいつごろか、よくわからない。覚園寺からの旧道は前述バリケードのところや地蔵堂の脇の崩壊した道などが痕跡として明瞭であるうえ、団子窟は印象的にも西側、つまり平子(ひらじ)側からの玄関口の様相を呈している。

 覚園寺は北条貞時・高時によって創建されており、南北朝時代に朴艾(ぼくがい)思淳によってかかれた覚園寺文書「月課年課記」(年中行事の一覧)にも開基として貞時、高時、その兄・菊王らの「聖霊」を月次・年課供養し続けていたことがわかる【注】。おなじく室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえるが、これを「いはくら=やぐら」とよみ、その祭祀権・所有権などを公方府などから承認されたさいの文書群の存在をしめすもの、とのみかたがある。空想をめぐらせば、北条氏関係の古いやぐらをひきつづき供養することを覚園寺に許した(もとめた?)ということになるのだろう。



大五輪の分厚い板状浮き彫りは総高約3m、側壁に龕。
 同寺はまず後醍醐天皇の勅願寺として、ついで足利氏が独自に復興した。思淳和尚は尊氏・直義から信任され、いまも住職等が懐中電灯で解説してくれる薬師堂のあの「梁牌1354」に尊氏とともにサインした長老である。こうした状況から見て、後醍醐や尊氏の意図は滅亡した幕府の亡霊を鎮魂供養することにあったとみてまちがいないし、梁牌にかかれているように天皇(後光厳天皇)や「征夷将軍」の息災長寿、異国降伏など、国家の重大事にかかわる怨霊ののろいを慎重に取り除くためだった。これを裏付けるのは命日供養のなかに直義(兄・尊氏によって殺害)の名もみいだせることである。1354年といえば尊氏によって元弘以来戦没者供養の一切経が書かれたのと同じ年にあたる。

 覚園寺文書で興味深いのは、薬師三尊の胎内銘札だ。江戸後期、天保のころに寺が荒廃したので、院代儀英、寺の目代源兵衛という者が仏像をねこそぎ江戸・回向院にはこんでいって出開帳(展覧会)をおこなった。これが失敗におわり、莫大な借金を負ったばかりか仏像も破損。追い詰められたふたりは逐電、のたれ死んでしまった。たまたま二階堂村の豪農が修繕費を負担して再興にこぎつけたが、のちの誡めにとこのてんまつを銘札に書き付けてのこすことにした、とある。

 沢庵和尚の「鎌倉巡礼記1633」のころには、荒廃した鎌倉の寺々のなかでも覚園寺はまだましなほうだった。それでも江戸後期にはこのていたらくにおちいっていた。やぐらももはや、だれのお墓でもなくなり、正体不明ななぞの遺跡になっていたらしい。



大梵字17の如来像と月輪。左上の梵字はレポ3写真5参照。
 私が写真採取でたずねたとき(2006年12月・翌2月)にはぐうぜん史跡整備計画のための調査報告書をつくって間もないときだったのでだいぶ藪も刈られていたらしいが、2007年夏には季節柄かなり植物が生い茂っていた。一段あたりの通路のながさは80mほどだろうか、途中、ロープや倒木などでふさがれていたら「都合により通行止め」ということで、あしからず。

 見学には木の葉がおち見晴らしの利く冬のうちがよく、まず上のほうの段から下を望むと地形がわかる。ただしあせって崖のそま道(※急)をくだるのは怪我のもと、きちんと各段にそった通路の入り口をさがせばむりなく主要なものはみられるはず。梵字窟(小梵字11)の前にはもともと大きな落石があるが、このくらいの障害物なら公認のハイキングコースにもまま、ある程度。なお写真、如来像のわきの梵字月輪は、湿度や光線の加減で黒ずみ、目を凝らさないとまったくみえない場合もある。湿った日や木漏れ日の強い光線がぎらぎら映りこむ時刻などは、さけたほうがいいかも。


【注】 近年の文献は「市史」とはことなる番号(未定稿)をつかっているが、番号は新発見の窟が見つかると予告もなくずれてゆくことがある。ここでは全国の主要図書館で容易に閲覧できる「鎌倉市史・考古編(赤星直忠編)」の番号をもちいた。赤星氏の原図は2007年発行の調査報告書にも転載されているので、より深く興味をお持ちの方は市役所か中央図書館へ。覚園寺文書は市史・資料編。


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