トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第43号 


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もちださんの鎌倉リポート No.43(2008年8月8日)



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「やぐら」について・1



箱根磨崖仏・六道地蔵(1300)。
 頼朝や実朝が参詣した二所権現のひとつ「箱根」には、六道地蔵という大石仏や曽我兄弟の墓とされる五輪塔(1295ころ)がのこっているが、やぐらのようなものは皆無。伝・多田満仲墓宝筐印塔(1296)にいたっては、大和の石工大蔵安氏の製作とあって、関西式にちかい。二十五菩薩石(1293)も、鎌倉というよりは当ノ尾の石仏(京都府加茂町)という印象だ。

 やぐらは鎌倉特有のもので、鎌倉からすこしはなれるとやぐららしいものは原則としてほとんど存在しない。横浜市内には奈良時代の横穴墓がおびただしく分布し、開発にともなう発掘調査などで横たわる髑髏なんかをよく目にするが、中世のやぐらというものは六浦近辺までしかひろがっていないらしい。おおくは土を盛り五輪塔をたてた、ごく平凡な塚になっている。

 ひと昔前、読売新聞に「房総で大量の やぐら 発見」の特集記事がのった。 

○千葉県館山市・・・鎌倉極楽寺、建長寺などの所領があった。「千手院やぐら」「水岡やぐら」「岩見堂」「崖の観音」
○千葉県富津市・・・和田義盛の本拠のひとつ。「十宮やぐら」「岩井やぐら」「恩田やぐら」

 やぐらは400あまりにも及び、主なものには写真が出ていたが、興味のある方は縮刷版をご覧になるか、上述のキーワードを検索して探していただきたい。当時の切抜きをみるかぎり、ほとんど鎌倉のものと変りがないようにみえる。鎌倉以外で確実に「やぐら」といえるのは房総だけのようだ。


旧大仏坂ふもとの大やぐらの内部。



松嶋・雄島の穴(宮城県)。
 たいていの場合、地方の「やぐら」もどきには一見して気づくような違いがあって、たとえば日本三景の一つ、松島にある石窟は雰囲気がやや浄光明寺などににているものの、細部の印象はべつのものだ。どこにでもある、岩壁にただ龕をあけたようなものにくらべ、きちんと石窟堂のようになっているものもあれば、磨崖連碑とよばれる薄い浮き彫りにすぎないものもある。

 この雄島の穴は、伊達政宗が松嶋・瑞巖寺を復興するいぜんから天台僧などが修行の場としていとなんできたものという。鎌倉とのつながりは不明だが、建長寺開山・蘭渓道隆がまだ各地を点々としていたころ、滞在したことでも知られている。建長寺にもかつて開山の座禅窟というものがあって地蔵が祀られていたというが、それは惜しくもすでに失われているらしい。

 石窟寺院は56億7千万年後にあらわれる弥勒の世まで、経を伝え残そうという「経塚」の思想とむすびつきがふかい。キリスト教でも紀元1000年に世界が破滅するといわれていたが、仏教でもまた、仏滅千五百年とか二千年目とかに「末法」という教義の消滅のときがはじまるとされていた。平等院がたてられた1052年がその歳にあたるとされていたほか、天災や内乱で国が分裂した北魏の僧が、熱心に百済や日本に布教したのもこれと関係があるといわれる※。

【注】 ※記紀には北魏をあらわすことばがなく、飛鳥以前の寺院遺構は半島にもまれであるので、コマ僧とされてきたものの多くが実は半島に渡来していた北魏系の僧であったと推定される。竜門・雲崗石窟などの北魏様式が古代、日韓に与えた影響は大きい。仏教伝来538年説(元興寺縁起)では洛陽の寺院が壊滅した東西分裂期、552年説(書紀)では末法説に一致するという。仏滅には諸説あるがここで重要なのは古説で、12世紀成立の「水鏡」によれば西暦前950年になる。


やぐら(上)と石切り場(下・衣張山)。大きさ、かたちはもちろん、鑿の跡もまったくことなる。



京都府・笠置磨崖仏のうち現存する鎌倉時代のもの(右)、奈良県・大野磨崖仏と梵字月輪(左)。
 弥勒は兜率(とそつ)天四十九院というところで最後の修行に入っており、はるか遠い未来に現われるとされた。硬い石に刻むのも、遠い未来にまで届ける意志があったからだ。奈良時代の笠置寺磨崖仏や、室生寺(※かつては女人高野ではなく修験寺院)のてまえにある後白河法皇の大野の磨崖仏などは弥勒像である。地獄谷石窟の線刻(写真はレポ4)も弥勒と推定されている。大野の石仏には小さな龕があって経典が納められていた。藤原道長が吉野金峯山におさめた国宝の経筒は、今でいう「お茶の缶」に酷似しているが、銘文にはやはり弥勒信仰がうかがえる。

 伝説では唐人石工の活躍などがつたえられる。しかし唐宋では、弥勒はすでに現世利益をあたえる布袋様の姿へと劇的に変貌していた。これは弥勒がいますぐ現れるという下生信仰に依ったもので、元代末期には、弥勒教というカルトにまで変化している。高麗ではモンゴル石人(灌燭寺弥勒大仏)など、宗主国の影響を受けた異形の石像が主流になっていた。したがって日本独自の弥勒信仰に直接結びつく工人の往来とかは、ちょっと考えづらい。1196年、東大寺の狛犬などを彫ったという宋の石工などは、むしろ珍客中の珍客だったのだろう。

 奈良・春日山石窟の穴仏では二仏併座と六地蔵の浮き彫りが見られる。これは「塔について(レポ34)」などで考察したように、往生に関係がある。六地蔵は六道輪廻する亡者を救うために能化した阿弥陀、ないし閻魔十王、十三仏などの化身にあたる。二仏併座は中国にも炳霊寺石窟などに古例があるが、日本では庶民の即身成仏を象徴するものになっていた。

 遠い未来におとづれる弥勒の楽土に、経だけでなく自分の遺骨もとどけよう、そこにふたたび現世に生まれ変わって法をひろめよう、というのが石窟葬の当初の理念だったとおもわれるが、ここでは死者にとってより身近な「皆往生」という救いを与えるものに変化している。穴仏西窟にのこる墨書銘は久寿二年1155・保元二年1157で、やぐらよりも古いことが確実である。ただ、やぐらのように、墓として大量に作られたものではない。保元物語の悪左府頼長などは塚に葬られた。


奈良・春日山石窟(穴仏)の西窟(上)、東窟(下)。



旧大仏坂やぐら。
 鎌倉のやぐらのばあい、もっとおおくの磨崖仏が存在していれば平凡な石窟寺院の一例にすぎなかったのかもしれない。がらんどうの立方体のような、不思議な空間にはどんな意味が込められているのか、なかなかつかみづらい。いっぱんには防空壕とか石切り場、はてはゴミ集積所や物置などと混同されたりもしているが、おびただしい数と大きさのわりに、現存する装飾や出土物が極端に少ないというのも、原因のひとつなのだ。

 一部には壁画があったとか、金属の掛仏や木製の仏像、仏壇、華麗な扉のたぐいがまつられていたのではないか、ともいわれるが、充分な証拠はない。石祠とか巌窟堂のたぐいならめずらしいものではないが、やぐらは数千にもおよぶその密集ぶりが尋常ではないのだ。むしろ、仏堂としての要素を棄てて、墓そのものになっていった経過のほうが、なぞに満ちている。


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