トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第44号 


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もちださんの鎌倉リポート No.44(2008年8月10日)



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「やぐら」について・2



瓜ヶ谷やぐらの磨崖仏。保存状態はよくない(2枚合成)。
 中世鎌倉と地方との違いは、その圧倒的な人口密集ぶりだった。土地取得もまにあわず人が死ぬから、「とりあえず掘るか」と備えておく。なにやら首都圏ではやる納骨堂ビルディングのような感覚があったのかもしれない。

 そうなると丁重な彫刻を施す余裕がなかったのかもしれないし、「機能的なものだけが美しい」などというコルビュジエのような者もでてきて、コンクリート打ちっぱなしならぬ「巌窟掘りっぱなし」がはやったようにも思えてくる。民芸的な磨崖仏を造るよりは、せいぜい梵字や塔のレリーフ程度にとどめておく選択のほうがモダンで「粋(いき)」であるという、・・・きれいな立方体のような空間に出会うと、そんな空想もひろがる。

 官製仏教の根拠地、奈良・京都地方では石窟よりも磨崖仏などが主流で、花崗岩などの硬い石にそのまま彫り付けたり、板状に割って浮き彫りし、これを箱型に組み合わせる「石龕」などがおおくみられる。これは鎌倉よりも大きく硬い石が容易に手に入ったためらしいが、独特の生硬さは否めない。

 インド、バーミヤン、敦煌、中国にいたる石窟寺院は巌窟を単位にしているが、日本の場合は浅くえぐっただけのものがおおい。巌窟を住居とする砂漠の文化とのちがい、といえばそれまでだが、風土上、じとじとした凝灰岩に洞窟を深く彫りこむ理由はなかったのだろう。敦煌などではオンドルがついた僧侶のための住居窟が数多く分布するし、黄土台地にはいまも巌窟住居が重宝されている。

 中国には日本のように銅で鋳造したほんものの大仏などは一例もなかった。石胎塑像といって、砂礫などの岩盤を掘って雑につくったものの上に粘土や漆喰を厚くもりあげ、安上がりに装飾するバーミヤンふうの土仏がおおい。石窟などでも壁画は漆喰の上にかかれている。日本だと漆喰が残っていること自体めずらしく、朱だるきやぐらや筥窟などでは、にかわやドウサなどの彩色下地のはたらきで硬化しているぶぶんもあるが、たいていは失われているのが普通だ。


奈良県・金屋の石仏(上)は石龕の一部だったらしい。なぜか優美さでは地方のものには及ばない。(下)は臼杵石仏。



臼杵石仏群の仏龕。仏像は平安ふうで、大陸的というより都の木彫に酷似している。
 また臼杵の石仏など保存状態がよいものは和様で明らかに都ふう、院派や慶派の影響さえ指摘されている。つまり中国からの直接の影響は限定的だった。北西九州にはあまり磨崖仏はないらしく、「中韓にちかいからルーツ、先進地域」などという、かつて声高に唱えられてきたような単純な図式ではないらしい。もちろん日宋関係は良好だったため、有名な楊貴妃観音(京都・泉涌寺)や水月観音(東慶寺)、あるいは安阿弥様(快慶様)など宋代の木彫やその影響はすくなくないが、海上交通がさかんな時期、大分はむしろ都に向いてひらけていたといえる。

 鎌倉の場合、石切というのは都市造成に欠かせない埋め立て用のクズ石(土丹)の採取や、切岸という要害の構築に密接にかかわっていた。鎌倉石とよばれる水成の凝灰岩ないし砂岩は、もろいが軽く耐火性があるというのでかまどの素材などの消費材としてさかんに流通していた時期もあったらしい。また造成にかかわる非人人足に事欠かなかったのも大都市ならではで、こうした人材は唐人ときめつけるより、都から連れてきたというほうが妥当性が高い。

 大分に点在する石窟は、いわゆる阿蘇凝灰岩というやわらかい石材が古墳時代から珍重されていたこともあって掘削文化が発展、数多くの磨崖仏群が刻まれた。その多くはレリーフの厚みの分だけ周囲を彫りくぼめただけのものである。なかには平天井・羨道をもち、やぐらと見まごうものもあるが、もちろん定型化したものではなく、またあきらかに近世という彫刻もあって、そのすべてが確実なものとは言いにくい。しかし写真(下)、曲の磨崖連碑(大分市)は百八やぐら五輪窟などの浮き彫り(レポ1参照)と酷似している。

 この曲(まがり)・高瀬磨崖仏など、多数ではないが鎌倉期に遡るふるい仏龕のいちぶにも、やぐら同様、立方体に深く掘り込もうという傾向がみられる。伽藍磨崖仏にいたっては、彫刻を施した前室があって石窟堂のかたちを十二分にととのえている。犬飼石仏群には、小型やぐらさながらに五輪塔を納めた多くの龕がならんでいる。口戸の磨崖祠(室町期)内部の社殿型の小龕は、瓜ヶ谷の鳥居型の龕をおもわせる。


奈良・穴仏の外観(上)、大分・曲石仏の磨崖石龕(下)。右壁のレリーフに注目。



大分市・元町石仏群(上)、鹿児島・川辺磨崖碑群(下)。
 鹿児島県川辺郡には中世有数の海外貿易港のひとつ、坊津がある。そのずっと内陸にある川辺町清水の磨崖碑群には、仏像の代わりに巨大な線刻五輪や梵字月輪をあしらう線刻板碑(鎌倉末期)があって、百八やぐら群16号穴などと共通の意匠をしめしている。また、塔の浮き彫りの一部をくりぬいた龕(写真・下)は瑞泉寺裏山やぐらにもみえるし、塔のかたちは泉水の浮き彫り(レポ36)に酷似している。鎌倉に多い板塔婆型の浮き彫り(レポ2写真3参照)も多数みられるが、ここでは線刻のものよりあたらしいとされている。

 このような、部分的な類似点はさがせばまだまだ、たくさんあるにちがいない。ただ、むこうからこちらに来たのか、こちらから向こうへ行ったのかは不明だ。有力な僧はまず京・鎌倉を拠点にしたのだし、やぐらを目にした地頭たちが、地元の磨崖仏にも同じようなものを、と導入した可能性もある。やぐらっぽい石窟にきざんだ鎌倉時代の磨崖仏は、西国ばかりでなく福島などにも少なからずあるという。東国のふるい磨崖仏としては、大谷石の産地で有名な栃木県の大谷のものがきわめて優美な藤原様式としてしられており、西国のみが先進地域というわけではなかった。

 やぐらのルーツを考えるさいに必ず出てくる「仁治の禁令1242」(レポ2参照)。これは実は直接鎌倉に関する文献ではなく、大分地方を治めた大友氏の文書にのこっていたものだ。ただ地方都市では土地も豊富にあったし、人口密集も幕府とは比べものにならなかった。房総半島などではなおさらだろう。

 巌堂道、という地名は「吾妻鏡」和田合戦1213のあたりにもでていて、現在の「いわや不動」ないし付近に散在する松源寺やぐら群を指したものであろうことは文脈からもあきらかだ。これが「やぐら」であれば格段に古い例、ということになるが、仏教窟堂は平安以前からあり、これがほぼ納骨窟に特化してゆくのが「やぐら」の成立だとすれば、やぐら以前にも、やぐら以後にも、「やぐらに似たもの」があっていいはずだ。松源寺やぐらは旧川喜多邸のうらの崖にあるが、ほとんど藪で立ち入れず、ざんねんながら詳細はうかがえない。


富貴寺ふきんの磨崖石龕(大分県)。



巌堂あたり。不動尊が祀られたのは比較的近年のことらしい。
 さて、これら地方の石窟群で参考にしたいのは史跡整備、その保存と「見せ方」であろう。国宝に指定された臼杵では、背後の大掛かりな法面補強をともなう覆い屋がつくられ、植生の伐採、石像じたいにも修復が施されるなど賛否両論があった(写真はレポ28)。草むらだった箱根の石仏群にもいつのまにやら大仏殿ができたり、周辺整備が進んでいる。

 鎌倉の場合はほとんど手付かず、つまり野放しだ。巌堂などのように崩壊し、おおきく様変わりしたり、そのまま消滅してしまうという例も目につく。直上の重たい大木をきるなどの応急処置では間に合わなくなるときも来るだろう。荒れ果てたやぐらの謎めいた風趣もまた捨てがたいが、いつの日か重要なやぐら群にはボードウォークや法面工事、雨水対策などが必要になってくるにちがいない。じぶんはもう見物したから保存など止めてとっとと埋めてしまえ、遺跡は私のこころの中に生きている・・・などという「高松塚」方式のエゴイズムでは、けして後世に残すことなどできないはずだ。


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