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もちださんの鎌倉リポート No.45(2008年9月6日)



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地の果て〜アイヌ・1



海岸橋あたり。
 由比ヶ浜の中世の浜辺、いま一ノ鳥居や畠山石塔が建って一段高くなっているところを地理学では「浜堤」というが、その外側のいくつかの場所で、戦前から現代にかけて多くの中世人骨が発見された。元弘合戦の戦没者とみられる一群は、人種学者によって八雲アイヌに酷似するものと断定されてきた。

 これらのお骨は九品寺に納められた。この寺は新田義貞が戦死者をとむらうためにはじめたと伝えるので、何百年かぶりに収まるべきところに収まったということなのだろう。

 そもそもアイヌとは一定時期の文化・民族をさすのであって、人種ではない。縄文という、本土とわけへだてのない高度な文化をきずいていたひとびとが、北国のきびしい自然の中で「農耕社会に変貌する歴史」からきりはなされ、続縄文といわれる狩漁中心の文化を続けた。やがてウィルタとかギリヤーク(旧称)などという名で知られるオホーツク諸民族との共生と文化交流を経て、独自の民族社会を形成していったのだ。

 つまり東北地方の「蝦夷(えみし、えぞ)」などは、かりに縄文人種の特徴が明瞭であったにせよ、アイヌ民族ということはできない。時代も、場所も違う。伊治公砦麻呂にしても、多墓公阿弖流為(アテルイ)らにしても、朝廷から「公(きみ)」という叙爵をうけた有力者の反乱にすぎず、北海道の蝦夷のように原アイヌ生活を送っていたひとびとではない。北上盆地にはすでに早い時期から前方後円墳も東北城柵(屯田都市)も進出しており、多数の中央系の農耕民と雑居していた時代のひとなのだ。反乱には和人系とおもわれる人々も名を連ねており、せいぜい天候不良など地方の事情に対応できなかった未熟な農本政策や、国司の腐敗などの圧政が積もり重なったツケだったのだろうと思う。


九品寺。



現在の材木座・由比ガ浜。光明寺裏山から。
 秋田城が襲われた元慶の乱(878)をへて、良吏としてしられた藤原保則が献策したのは「陸奥・出羽に一定の自治権を与え、地域をよく知る者に任せるようにすればますます豊かになり、治安も安定する」ということだった。安倍頼良や清原武則、清衡ら奥州藤原三代に一定の自治を許していたのは、このポリシー(政策)が受け継がれていたことを示している。

 じっさい、奥羽の田地がすでに畿内を上回っていた「倭名抄」(10世紀の事典)のころにはまだ存在していなかった、奥六郡や仙北諸郡のような新立の郡家がその後つぎつぎと造立され、頼朝の奥州攻めのころまでには地鶏で名高い山間部の「比内郡」なども、いつのまにか成立していた。

 「古事談」によれば、奥州藤原二代・基衡の家来、信夫の郡地頭大庄司(佐藤)季春という者が国司の入部を拒否し合戦におよんだ、とある。「郡地頭」ということばはとくに注意できるが、主君基衡はじつは正式には無位無官だったらしい。系図がつたえる「陸奥出羽押領使」というのがたとえ私称だったにせよ、基衡はその卓越した統治力で国府および律令政権を黙認させ、地頭を配置する小幕府をきずいていた可能性がなきにしもあらず、ということのようだ。

 北条氏時代には、御内人の安東氏というものが津軽・外が浜(青森市付近)の代官(地頭代、蝦夷管領)に置かれた。この者は奥州安倍氏の子孫と称し、現地では十三湊などに本拠をおき、また函館周辺の道南部に蝦夷風の城(チャシ)ににたいくつもの舘(たて)をかまえ一門の与党を配置した。安東氏の内紛がもとで北条幕府が滅んだ、という説(レポ14)が古くからあるが、内管領の長崎父子は当事者双方からわいろをとり、かえって紛争を複雑化させたという。

 北条氏は蝦夷貿易を独占し、関東御免の船なるものを出して大きな利益をあげていた。この船に付けられたらしい、「過所の旗」というのが若狭小浜につたわり今に残っている。その旗にかかげられた「三ツ鱗(うろこ)」、つまり北条氏の紋所によって、あらかじめ「わたり」をつけずとも津料(礼銭、関料)を免除され、貨物を没収されたりせずにどんな湊にも自由に出入りできた。いいかえれば、北条氏の船だけはすでに北前船とおなじ西廻り航路をほぼ独占的に確立していたことになる。


かつての大鳥居はすこし内陸がわ、閻魔堂橋ちかくにあった。歩道橋が目印。



九品寺あたり。
 北海道・シベリアの特産品は、武具や馬具にもちいた水豹(アザラシ)、虎、熊などの毛皮や鷹の尾羽根(これは矢羽になる)などで、そのほかはユーラシア大陸の品だろう。近世には鮭や昆布、砂金などがもたらされたし、中国の宮廷服は「蝦夷錦」ともいわれた。太古には本州産の石器(黒曜石のナイフなど)や南洋の貝器などがわたっていた。アイヌ以北のひとびとは鉄器などがあまり上手ではなかったため、本土からさかんに輸出されたとみられる。

 安東氏のいちぶは御内人として北条氏小町邸の付近、あるいは敷地内にすんでいたという。つまり現在の宝戒寺一帯にあった屋敷の隅に、諏訪・長崎などの諸氏とともに安東氏の宿所があった。津軽の安東氏は現存する記録に乏しいまま室町以降おとろえてゆくが、このあいだの事跡が17世紀にまとまった「新羅之記録」二巻という古文書にわずかにのこるにすぎない。この新羅、というのは新羅三郎義光の守り神・新羅明神のことで、義光は安東氏といれかわりにさかえた武田(蠣崎・松前)氏や南部家の祖先にあたる、いわば氏神の名である。



海岸橋より滑川河口をのぞむ。
 義光は八幡太郎義家の実弟。後三年の合戦に活躍した、奥羽平定の象徴でもあった。義光が元服したと伝える新羅明神ははるか平安前期、入唐僧・円珍が滋賀県大津市の三井寺に鎮守として創建したもの。円珍は一説に利仁将軍を呪い殺した異国の恩人、ともいうが、たぶんちがう。むしろ新羅の暗主キム氏を滅亡させた「張宝高」という現地海賊と唐で親交があった。もともとあった水上交通の神「白髭明神(住吉)」と習合したらしいが、この白髭明神も神功皇后に三韓平定を託宣した伝承がある。

 平安時代、朝鮮半島の海賊にくるしんだひとびとは、異賊調伏にかかわる、こうした神社を信仰した(レポ22)。元寇は樺太にまでおしよせていた。辺境開発はまた、古来大陸からの侵攻にたいする防衛意識と不可分だったのだ。

 北海道には日ノ本、唐子、渡党という原アイヌがすんでいて、唐子(からこ)は北からにげてきたオホーツク民族に近く、渡(わたり)はもともと東北に渡っていて言葉も通じた集団だったようだ。江戸期に描かれた「東国名勝誌」には、蝦夷ヶ千島のさきに「高麗」がしるされている。これは後述(次号)するように渤海国のことであるが、韃靼(シベリア地方)と朝鮮はじっさいにつながっているのか、これも地理学・地政学上のなぞになっていた。ツングース国家「高句麗」を三韓(朝鮮南部)と混同する朝鮮由来の迷信すらあって、どういう意図か、いまだ信じている学者も多い。



武蔵野台地からはこんな土器片が無数に出土する。
 安東氏らがかまえた道南館のひとつ、上之国遺跡(勝山館)というところにのこる古墓群からは、原アイヌと見られる人の墓がわけへだてなく並んでいるらしいことがわかってきた。安東氏がほんとうに安倍貞任の子孫だとすれば、数百年にわたってはぐくんできた交流と信頼の結果とかんがえるべきなのだろう。アイヌはけして隔絶された民族ではなかった。

 由比ガ浜の人骨もはじめ、道南からきたアイヌの傭兵ではないかとも考えられた。しかし、関東や東国では、古墳時代の人骨でも弥生系ではなく、縄文系在来人の形質がとくに強いとされている。地方統治の基本はみなごろしではなく婿入り(混血)だったことをおもえば、東国の支配層がもともと純血な畿内人であるかどうかという問題はもはや無意味な問いなのかもしれない。


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