トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第46号 


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もちださんの鎌倉リポート No.46(2008年9月6日)



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地の果て〜アイヌ・2



新田義貞が進軍した坂ノ下あたりの海岸。
 安倍頼時や義経が「胡国」にわたった、という説話がある。頼時がみつけたという謎の大河はアムール河だとおもわれるが、伝説の背景となったシベリアとの交易を「山丹(靼)交易」といった。アイヌ語では知床を「地の果て(シリエトク)」という。しかし北海道のその先にも、千島や樺太、靺鞨(まっかつ=シベリア沿海州)などにつうじる海の道がはるか縄文時代からひらけていた。

 奈良時代には靺鞨の地に渤海国(※日本名「高麗<こま>」、現地名「震」のち「東丹」)がうまれたため、津軽の津(十三湊)から視察のための船が出された。のちには国防上の理由から渤海船は可能なかぎり大宰府や能登などに回航させているが、正確な場所がふるくから知られていたことは疑いようがない。また藤原清衡が平泉・中尊寺を開いたさいの願文には、「蝦夷との戦争がおわったばかりか、粛慎(女真族)や邑婁(※邑は当字で正しくは手偏)といったシベリア地方の部族(原文「海蛮」)までもが、平和な交易に従っている」と仏教の力をたたえる文章がある。



材木座、乱橋付近。この旧川道の北・交差点付近が「辻町」、以南が「材木座(浜土)」といわれた。
 山丹交易だけではない。安倍頼時胡国わたりの話をつたえたのは大宰府にいた宗任法師という者だった(「今昔物語集」巻31)。この宗任は安倍頼時の子で前九年の合戦で降伏、ころされず西国に流されていた。このひとはまた、奥州藤原氏の二代目・基衡を婿にしていた。基衡妻といえば平泉毛越寺のとなりにあった別院・観自在王院をたてたひとだ。金色堂をかざるアフリカ象の象牙などは、「西廻り航路」で入ってきたものにちがいない。

 平泉で見つかる青磁類は博多で発掘された同時期のものと種類や割合がほぼ一致しているという。日宋貿易には奥州の金がものをいった。京都の千本釈迦堂大報恩寺は奥州藤原氏が、若狭小浜の羽賀寺は安東(安藤)氏が寄進したとされる。奥州安倍氏の子孫を名乗る者は九州においても少なくなく、松浦党の一部や緒方氏など、海運のノウハウを持った豪族だったことも注意される。

 蝦夷は「狩漁を業とし養蚕を知らず・・・居住定まらず、調庸を徴するに至らば山野に逃散す」とされる一方で、「商胡」というシルクロードの民と混同されるほど商売上手だとされていた。平泉の繁栄は「絶対平和の希求」とか「万物共生」などといった奇麗ごとばかりではなく、広大な交易圏を確保するためにいとなまれたものだ。



祇園山を下るとみえる大町以南の住宅街。下の八坂神社付近は「傘(からかさ)町」の地名がつたわっている。
 東国の兵は一騎当千といわれ、莫大な牧を所有し騎馬にひいでていた。「武蔵鐙(あぶみ)に上総鞦(しりがい)」と謳われた馬具生産地でもあり、関東の古墳から出土する馬具の量は九州・畿内などの西国はもちろん、大陸すらも優にしのいでいるという。

 10世紀には、関東の富裕な百姓が「就※」馬の党というのを組んで年貢の運送を請負い、流通を独占した。「就※」(※ただしくは「イ+就」) という字は「雇う」ということだから「馬借」とおなじことで、為替のようなこともしていたのだろう。ただ、たびたび貨物を奪って遠方に横流しする強盗団のようにも疑われることがあったらしい。金売り吉次の伝説は奥州藤原氏による金相場をうかがわせるし、安東一族は鎌倉末期、関西各地で高利貸までいとなんだという。そのころの大阪はまだ沼地で、船場の金持ちなどは、影も形もなかった。

 畿内では「均等名」ということが指摘されているように、土地がきびしく分割され、大豪族が生まれないような規制がしかれていた。規制の緩い東国はまさに一攫千金のフロンティアだったのだ。



観光ルートをはずれると昭和レトロでかわいらしい家並みが(材木座)。
 安倍(阿倍)氏はもともと全国各地で活躍した中央貴族だった。大納言安仁の子弟は陸奥守にも大宰大弐にもなっている。阿倍比羅夫などの有力武人も輩出した。遠祖は古墳時代の王族・オオビコのミコトで、「陸奥話記」にみえる上毛野氏や君子部(吉彌候、吉彦)氏、あるいは膳部、武蔵国造などと同祖である。

 オオビコの名は埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した国宝ワカタケル鉄剣にもきざまれていた。東北平定に活躍し、東西の海から攻めていって会津で出会ったという、あの伝説の「四道将軍」の血筋というものが、すくなくとも6世紀初めには関東に定着していたのだ。王権の象徴である前方後円墳の精密な近似値からも、中央から関東、会津・東北という進出コースが裏付けられるという。仙台あたりの古墳は九州や四国、東海・北陸あたりのものよりずっと大きい。

 奈良時代には安倍狭島臣墨縄、物部入間連広成なるものが征東副使とか鎮守副将軍などになっている(782、788)。狭島(下総国猿島郡)とか入間(武蔵国入間郡)とかいうのは明らかに土着の封建地域をあらわしているから、中央の者がいったん関東に入部、そこに拠点をきずきつつ東北を治める、という統治ラインは確固としてうけつがれていた。のちに将門の乱を平定し、鎮守将軍を歴任した関東武士・桓武平氏や藤原秀郷一族らも、関東を基盤に東北へ、既定のコースをたどったことになる。



砂にのこった水底の波紋(和賀江島あたり)。
 このような背景をかんがみれば、藤原清衡や吉彦秀武などを強いて「アイヌのなりすまし」と言い切るような旧来の「仮説」はかすんでしまう。しかし、それならば清衡らはなぜ、みずから「蛮夷の遠首」「俘囚長」などとなのったのか。

 坂上田村麻呂の時代、蝦夷名をもつ多墓公阿弖流為らがすでに「公」に叙せられ、それも伊治公とか胆沢公とか、かなりの要地に封じられていることに注目したい。中央系の氏族名をもつものは逆に、「俘囚吉彌候部荒島」「俘囚丸子廻毛」などと無位無官、ほとんど流人なみの扱いだ。このような者が勢力を扶植するには並大抵のことではなく、おそらくかれらは、現地有力者の婿になり姻戚関係を何重にも広げることによって、「蝦夷」そのものになろうとしたのではないだろうか。

 律令時代には大規模な移民政策がとられており、たとえば秋田城で発見された漆紙文書の死亡帳からは、高志公など河内地方の帰化氏族、つまり行基菩薩が救済した「貧民(浮浪人)」にあたるようなひとびとが多数、送られていたことが分かる。他方、「内地俘囚」といって投降した蝦夷を近江などに移し、むりやり農耕に従わせたことも11世紀まで確認できる。やがて鍬を棄て、近江商人や忍者になったものがいたかもしれない。こうした人口流動がしめすのは、地域ごとの純血性など、見かけほどなかったにちがいない、ということだ。

 明治以来、「朝敵」とされた東北以北のひとびとは、教育やマスコミを通じて「まずしく文化の遅れた熊襲」などという歪んだ先入観ばかりをうえつけられてきた。「アイヌは目がおちくぼみ、顔も寸詰まりでしかつめらしい印象」(東大名誉教授)、「矮小で背も小さく人物も小さい」(韓国史研究の第一人者)。

 いっぽう西国の弥生人は広大なアジアを開化する文明の民であり、「中国から朝鮮半島を経由してやってきた」だなどと主張。先住民に比べ天孫族だからとうぜん豊かで万能、顔もよく人物も雄大・・・そんな好き放題の理論すら展開されてきた。

 しかし15世紀の初め、対馬侵略のいいわけにやってきた朝鮮の使節・宋希mは「老松堂日本行録」1421に、西国の人間について、貧しく文化の遅れた奴婢や盗賊・売春婦ばかりでじつにみにくい住民だ、などと嫌悪感もあらわに記録している。もちろんこれは妖民の妄言にすぎないし、朝鮮使節はほとんど町に入れてもらえなかったのでその点は差し引かなくてはならないが、貧民窟がきわめて広範囲に分布していたことまで否定する理由にはならない。吉田兼好も、「都びとは総じて貧しく不如意なので、人の頼みごとにも何かにつけうそをついてしまう。東国人は万事ゆたかなくせに不人情でむげにことわる」(徒然草)などとやっかみ、心底ひがんでいるようすだ。一般にいわれてきたことと、史実はどうやらだいぶ異なるようである。


夜の畠山塔。中世の墓群は浜堤のそとがわを埋め立てた生活空間に密集していた。



蝦夷征伐(国立博物館本「清水寺縁起絵巻」より模写)。
 ある時期に西日本で弥生人が爆発的に増えたのは、農耕社会化がすすむ地域を中心に階層分化が局地的にすすみ、人口ピラミッドの底辺における農奴の拡大が在来人にまさっていった現象を示すにすぎないとおもわれる。もちろん農奴や非人(渡来人)が混血によって現日本人になる過程も、原日本人がいまの日本人になっていく過程も、まったくおなじことを別の言葉でいい表わしただけのことだ。すくなくとも、東北やアイヌを選別する根拠となるような、純血などという近親相姦的な概念は歴史上どこにも存在していない、と私にはおもえる。

 「アジアから来た万能の指導者(天孫族)が蝦夷を追い払って純血日本をつくりあげた」などという妄想を生んだばかげたレイシズム(人種至上主義)は、戦前、中韓に服属を強いた理論体系の「再塗装」にすぎなかったのではないだろうか。

 さいきんのDNA調査によれば、縄文型といわれるひとびとはアイヌや東北などだけに偏在するのではなく、全国各地に分布し、実は中国・朝鮮にも珍しくないことがわかってきた。弥生型だけが「ひらかれたアジアの民」「国境を越えた世界市民」などと信じて疑わず、「天孫族、降臨」などとうそぶいて他地方を排斥し、近隣国を執拗に侵略していったあの歴史観があやまりであったのはいうまでもない。古ぼけた学者たちの偏狭な弥生優性論、渡来人万能説のような地域本位の、あまりにも身勝手な人種観については、時代にふさわしい視点からの語り直しがもとめられているはずだ。


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