トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第47号 


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もちださんの鎌倉リポート No.47(2008年9月18日)



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稲妻



なにしろ暑かった今年の夏。
 寝室の窓からは空がみえる。ことしは雷の当たり年だった。めざましがわりにブラインドを上に向けてあるため、ものすごい量の光が入ってくる。明け方、ためしにデジカメの「月」モードで撮ってみた【写真2】。かすかにひぐらしが鳴いていた。去年の黒地蔵盆では、覚園寺の山にうるさいほど鳴いていたっけ。

 ちいさいころ大仏ハイキングコースをはじめて通ったとき、雷で引き裂かれた倒木がいくつも道をふさいでいた。母親はおそろしい崖みたいなところをさっさと迂回して渡り、私のほうは死ぬ思いがした。いまでは化粧坂ていどで「あんな道はないよ」と怒っている。年をとったらしい。さいきん私のまねをして久しぶりに独りで行き、大船からきたというかわいい女の子に道を教えてもらった、とさんざん自慢していた。母親は香里奈のファンだ。あやかりたいものである。

 雷は怖いが、銭洗弁天の裏から見る海はなぜか好きだ。家が何軒か建っている。こんな山の上にすむ人の気が知れないよ、とおもっていたら、今年の正月、その辺に住んでいるというおばちゃんに寿福寺のあたりで出合った。富士山を見るのが好きで、最高の場所を手に入れたのだという。韋駄天マダム、といえば故・白洲正子さん(随筆家1910-98)のトレードマークだが、ものずきな人はほかにもいっぱいいるものらしい。

 雷で思い出すのはやはり子供のころ、釈迦堂トンネルで夕立にふられ、木陰伝いに走っていたらどこぞの家からチャイコフスキーのピアノコンチェルトを練習するのがきこえてきた。やたら上手いので聴き入ってしまった。どの辺かはおぼえていない。去年の春、見当をつけにいってみたが、造成地や空き地ばかりが目についた。空き地の山すそには、やぐらがあった。


朝の4時半ころ(下)。何秒かおきに視界がまっしろになった(上)。



たわわに実った稲穂。住宅街の中の「真空地帯」。
 雨上がり。八月さいごの日曜日の午後、しばらくごぶさたしている鎌倉のかわりに横浜の近所に残る「田舎」をあるいてみた。

 線路沿いから川辺に折れ、印融法印の墓がある観護寺という古い寺にむかう。「浜なし」というのは最近予約殺到となっている地元の梨のことで、庭売りが基本。母親御用達のOさんとかいう農家がことし品評会で一位になったとか。青い梨畑のネットをこえるといちめんの田んぼがひらけている。上空をうねる雀の大群は「安寿恋しや、ほうやれほう」と、いきなり中世に誘うかのよう。

 かつてのように、目玉のかかしや、銀色のテープなどはない。市街化調整区域だとか、いろいろうるさい規制があるのだろうが、それよりも景観を残そうという地域の声に地主の方々が腹をくくったようにもみえ、浮世離れした雰囲気はなんともすがすがしい。

 このお墓はこの近所でいちばん古い永正十六年(1519)の年号が入っている。田んぼの向こうの電車の窓から遠くながめていただけで、たずねるのは稀だった。ひっそりとした境内で幼い兄妹がフリスビーをしてあそんでいた。今日までこどもは夏休み。

 田んぼ道にはねこじゃらしも芙蓉もひるがおも、以前のままに咲いている。子供たちが生まれる、ずっとまえからだ。かつてここで一度だけ「霧」をみたことがあった。早朝、田んぼの上を、演歌歌手のスモークのように低く漂うやつ。今回はアオサギを間近に見た。稲穂の中でかえるでも食っていたところが、曲がり角からきた農家のワゴンにおどろいて、私のほうに駆け寄ってきた。そして目の前をあわてて舞い上がったのだ。

 そういえば10年程前、奈良の平城宮跡の裏の池で、鶴のような巨大な鳥をみたことがある。ざんねんなことに同行はなくカメラも持っていなかった。しらべてみたが、いまだによくわからない。田舎の自然には、まれにそんな出会いがある。首都圏に残る、ほんのちょっとした緑でも、残っているのといないのとではちがう。今年は庭にほととぎすが居着いたり、変わったことがおおくあった。


印融の墓。うしろのネットが「浜なし」。



神社にあるさるすべりの木と線路沿いのひるがお。
 【写真3】にみえる森はあの報国寺をつくった宅間上杉の城跡だ(レポ8)。昭和の半ばころ、鎌倉市史・考古編を書いた赤星博士という人が発掘している。足をのばしてみると、以前空壕だったところにも家々が建てこんでいた。ちかくに親戚の墓地(いわゆる屋敷墓)があり、石仏型のふるいお墓の梵字や銘文をメモ。大日、観音、如意輪、地蔵、・・・こちらは元禄よりちょっと古いくらいのものだが、過去にお寺などが焼けたらしく、古い記録などはなにものこっていないらしい。

 くずれた古塔がたっていた畑の中の「塚」は、畑ごとなくなっていた。門前の草むらをわけて進むと見知らぬ造成地で、ちょうど塚があったあたりにブルドーザーが停まっている。城跡は寺になっていて、季節になると上物の銀杏がとれる古木がある。すべてがヒスイ色をしていて大粒、まさに一パック1000円以上はする料亭クラスの味。ただ檀家でも分けてもらう率はまれらしい。薬師堂は新築され、十二神将はすでにケースに収められており、もう以前のようには拝めない。

 ちょうど寺の人がいたので、あの古塔がどこへいったのか訊いてみた。本丸の土塁の上にあるというので、本堂裏の小径から細いけもの道をのぼってみたが、それは明治になって近所の人々が建てた別物の碑だった。「山田右京進」とかいう謎の武士の顕彰碑で、れいの「塚」はその武士の墓という言い伝えがある。だからてっきり石塔もここへ移されたのかと思ったのだが、寺の人もかんちがいしていたらしい。土塁から降りてみると、もう寺の人の姿はなかった。

 かつては他にもおおくの地蔵とか、祠とかがあった。だが市街化のじゃまものとなり、いくつかは寺や神社に、いくつかはそのまま消えた。ちいさいころはじめて東京からこの「横浜の田舎」にあそびにきたときには、カブトムシのいる山中に荒れ果てた地蔵堂のあとがあり、出羽三山供養塔がまだ放置されていた。レポ8の写真に写っている門前のいちばんおおきな地蔵はここからうつされたと聞く。いまはフォレストヒルズとかなんとかいう団地になっている。

 自転車でちょっといったところには畠山霊堂とかいうものもある。ごぞんじ畠山重忠が死んだ場所だという。その落ち武者の塚「御飯塚」、というのも近くの山にあったような記憶がある。また区史には弘安年銘の板碑1281もあったと書いてあるが、いまはどこにあるのか知らない。見つかったのは【写真3】にみえる、大きな団地のへんらしいという。


右の山が土塁で、宅地と公園の部分が空壕(箱堀)の跡。以前は田畑で風情があった。



一日何本かは鎌倉に直通している。
 近代化がおとずれるにつれ、環境もかわってくる。便利になれば年取った人にはいいのかもしれないが、心の問題はべつだろう。町田市鶴川に住んだ白洲正子さんの家「武相荘」のあたりははやくから住宅が建て込み、裏手はすっかり団地に囲まれた。晩年はタクシーかなんかで「寺家ふるさと村」あたりを眺めにいっていたという。

 白洲さんがなくなって10年。ここ鶴見川の流域もだいぶ様変わりした。イケアとかららぽーととか、ズーラシア、横浜国際競技場なんかにいちどは来た方もいらっしゃるにちがいない。けっこう多くの著名人も移り住んできた。高校時代、仲間や彼女とあるいた道も、もうほとんどおもかげがない。土地の歴史はあっというまに忘れ去られてしまう。それでも、この街はたぶん、私たち自身だ。どんなに変わってしまっても、これが私たちのいまの姿なのだ、と私はおもう。


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