トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第48号 


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もちださんの鎌倉リポート No.48(2008年9月21日)



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板碑



寛元の板碑。
 県内最古の板碑1244は、横浜市の北のはずれ、新興住宅の並ぶ丘の中腹にある。ありふれた近郊の風景でひとつちがうのは、ふもとから川にかけての平地が一面の田畑であることだ。「寺家ふるさと村」と名づけられ、そこから先は景観が保存されている。

 バス停(※)の「鴨志田団地」から中学の手前をはいってゆくのがいちばん近いが、風情がないので「甲神社前」あたりからふるさと村の田畑をぬって同神社を経てゆく方が中世らしい景観を想像するにはよい。板碑は鎌倉にもあるが、ここまでふるいものはない。埼玉県熊谷市あたりにのこる最古のものの断片(1227)からそう遠くない初期のものだ。

【注1※】小田急「柿生」、東急「市ヶ尾」、JR「中山」駅などから「寺家」の表記があるバス、210円。

 鳥居の前を北にむかう。みぎに田畑、西側の斜面中腹にはコンクリートブロックの法面がみえてくるが、これは古くからある三段の平場「腰巻」の名残で、碑はこの上にある。用水路にでる手前で左折し、道なりにすすめば坂の途中に集合墓地がすぐ目に入る。

 武蔵型板碑についは小学館「日本の歴史 12 中世の武士団」(石井進編著)に「板碑は語る」という章がある。この形式の板碑は、秩父長瀞・比企郡小川町などに産する緑泥片岩という薄く剥がれやすい青石をもちいた板塔婆のこと。おもに逆修や追善にたてられたものらしい。その本にはでていないが、この鴨志田のものは「念仏堂跡」とふるくから伝え、中世武士・鴨志田氏の持仏堂の地と推定されることに加え、碑の前の大石の下50cmから納骨器(瀬戸瓶子)がみつかり、墓塔としての性格もあきらかとなった。

 建立当時の様相がわかる、という点でも貴重な例といえよう。


鴨志田川にいたサギ。



西日があらぬ方向から差しているが本来は麓を望むように東向きにたっていた。
 現在は祠がつくられ、整地されたばかりか近在の屋敷墓も区画整理のためにここに集められ、本来の遺構もおもかげもないが、古い写真は「緑区史(通史編)」p222※などにおさめられている。碑面はキリーク(阿弥陀)であるから、ほんらい西日のさす方向を背に村を見下ろしていた。碑の根方にある玉石は写経石のなごりで、発掘によれば碑を中心に三つの塚状をなしていた。鴨志田十郎とその妻子を供養したものだろうか。

 鴨志田十郎は「吾妻鏡」に二ヶ所(建久元、六年)、頼朝随兵としてみえる程度のなぞの武士で、近くにあった建長の板碑片1255も同族のものと見られるから、鎌倉中期まで一族はたしかにこの地をおさめていた。碑のあたりは以前は山林で、木をきると祟りがあるといわれていたという。付近の鎮守である甲神社の古伝も詳しいことはつたえていないが、室町から江戸にかけて、ある種の霊地としての信仰が碑をそのままの場所に保存してきたにちがいない。

【注2※】現在は分区して横浜市青葉区鴨志田となっている。

 墓地からの眺望はちょうど真下のちいさな工場にさえぎられ、残念な状況にある。だが、腰巻といわれるひな壇状の地形のどこか(おそらく広い下段)に鴨志田氏の屋敷があったはずであり、付近を散策しながら見下ろすふるさと村のいちめんの田畑に中世を空想するのはそう難しくない。

 自給自足型の荘園経済と、はるばる秩父から青石を買い求めた流通経済と・・・。丘の麓や溜池のある谷戸田は古代からの田地と推定され、谷本川(鶴見川)につづく低湿地は氾濫原のようなところを中世に干拓したのであろう、という。はるか川向こうの山には野球で有名な桐蔭学園がある。上流の麻生あたりは北条氏の領、やや下って市ヶ尾付近には有力な古墳群がいくつか点在し、幕末に「即身成仏」をはたした和尚の堂などもある。


梵字「キリーク(阿弥陀)」と「寛元」の記年銘(二枚合成)。だいぶ風化しているので・・・



参考までにCGで描き加えてみた。(右)は側面から見た頭の部分。碑の露出長133cm、厚さ約8cm。
 写真では見にくいので彫刻部分をCGで強調してみた。便宜上白くぬってはみたが、じっさいには金泥だったのかもしれない。また、彫り込みはないが天蓋・蓮座も描かれていた可能性がある。たぶん頭部の山形のぶぶんにも、左右の切れ込みをむすぶ二条線をいれて層塔のようにみせていただろう。

 全国では断片や後代の凡作をふくめ、20000点はあるというが、鎌倉ではいがいに目にする機会が少ない。断片や中型小型のものは国宝館などに時おり展示されており、当初の場所にないものがほとんどのようだ。もともと移動されていて正確な出土地点が不明であったり、割られやすい、盗まれやすいというのが主な理由なのだろう。

 五所神社にあった倶利伽羅竜の板碑1262、十六の井にはめ込まれていた弥陀三尊画像板碑1306、長谷寺の基壇からみつかった宝筐印塔浮き彫りの大板碑1308などは保存もよく、板碑の名品としてよくしられている。金泥のあとが赤くにじんでいるものもあり、また百八やぐらの梵字のように膠をふくむ墨色で金泥下地を残すものもあるようだ。

 さて、鎌倉よりもずっと都心に近いところに、中世を想像させるこれだけの景観が残っていることは奇跡的というほかない。佐藤春夫が「田園の憂鬱」とかいう小説の舞台としたことで、全国的に知名度が高いのだという。

 しかし、ふるさと村の保全に歴史という観点が欠けているのは、すこし残念に思う。甲神社ははいっているのに、板碑のあたりは除外され開発が進んだ。法面工事はいたしかたないとしても、せめて案内図に記載くらいはしてほしいとおもう。地元農家のひとびとも、お墓の所在は知っていても、そんなものがあったのかとしきりに首をひねっていた。道を訊ねるひともいないのだろう。

 上行寺東遺跡のほとんど、大塚環濠集落遺跡の3分の2を抹殺したことなどでもしられる土建行政の前市長らにくもの糸を垂れてやるとすれば、こうした村落の景観をまがりなりにも残し伝えたということである。このひとに少しでも知識があれば、次善の策として貴重な遺跡とさほど貴重でない公有山林との等価交換くらいはおもいついたはずだが、それは政治家というものにたいする買いかぶり、ぜいたくすきる注文なのかもしれない。


体験農業と専業農家の手作業パフォーマンスが入り乱れる日曜日。



集合墓地は左端、中学のフェンスの下あたり。右奥はふるさと村の中心部。
 文化財を後世に残してゆくしくみについて、日本人全体がもっと考えてゆく必要があるのではないかと私は思う。ごく少数の、あまり興味のない近隣住民と開発業者という卑小な当事者関係でのみ拙速に保存の是非をきめる、というのはなんとも割り切れないおもいがする。

 文化財は人類の遺産、という観点からひろく地域を越えて周知をはかっていく、ということ。それがもともと欠けていれば、内輪でいくら申請書類を整えたってなかなか他人は認めてくれないものだ。そうしてみすみす「衣の中の珠」を失うのである。

 他人と知識を共有することは、そのいみで大切になってくる。学者や役人は、どうもこれが極端に苦手らしい。関係機関が極秘で発掘したり、部外者お断り、だなどと勿体ぶったところで、「くそ野郎、じぶんだけが知っていやがる」「また壊してから発表するつもりか」、そんな苛立ちや不信感が増すだけ、だろう。


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