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もちださんの鎌倉リポート No.49(2008年10月9日)



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五山文学をめぐって・1



建長寺の大梵鐘(約2.7t)。
昔年是日鎌倉破
所在伽藍気像皆
商女不知僧侶恨
売柴売菜打官街

 かつてこの月この日に鎌倉は破れ
 ありとある寺々もその景物もみな尽きた
 商い女は寺を失った僧侶の気持ちも知らず
 柴や野菜を売り役所あたりに出向いてゆく
  (中巖円月「惜陰偶作」)

 建長寺などに住んだ中巖和尚(1300-75)が元から帰朝したのは1332年のことだった。上京の途次、幕府の滅亡を知ったらしい。名高い鞆の津の遊女たちが何も知らずに歌をかなでているのを、かなしい気持ちで詠んだ詩(「鞆津」)もある。北条幕府は禅寺にとって大檀那だった。たぶんこの詩にうたわれる柴や野菜も、かつては寺地だった山や庭の跡地にかってにひとが入り込んで、そこで採れたものだ、という謂(いい)なのだろう。

天地の合戦はいまだ止むことはなく
土ぼこりは目をくらませ風は横ざまに吹きすさぶ
餓えたひとびとは野垂れ死にし道路にみちている
荒れ果てた町は昼間でも狐狸のすみかだ
わたしは問う、楽土はいったいどこにあるというのか
その身をどうして安らかに過ごすことができる、というのだろうか
 (中巖円月「沢雲夢を送る」冒頭部分)

 この詩は浄妙寺の僧が貧困ゆえに寺を去るさいに詠んだものらしい。「楽土ではなく荒れ果てた町」というのは中巖の経てきた京都あたりかもしれない。南北朝の動乱期、奥州から九州まで、戦乱のない場所はなかった。禅寺は師弟相承がきびしく、寺を辞めるということはこれまでの修行が無になることを意味していた。


円覚寺仏日庵。



日本仏教には敵味方・人種による差別はなく、法界平等の利益を願った(円覚寺)。
 北条時宗以来、幕府は元の動静を正しく知るため、滅亡した南宋から多くの高僧を鎌倉に呼び寄せ、また元にわたり私費留学した幾多の帰朝僧を登用した。大陸への意志は京の禅寺とはくらべものにならないほど強かった。「東海一■〔さんずい+區=オウ〕集」などをのこした中巖は、留学だけでなく、曹洞宗系統でありながら鎌倉五山に住んだ東明慧日(:元1272-1340)という異色の帰化僧に20年ものあいだまなんだという。

 報国寺の開山・天岸慧広(1273-1335)は、1329年、明極楚俊(寧波の人1262-1336)・竺僊梵僊(同1292‐1348)らをともなって帰朝した。中国僧にとって日本行きは、渡りに船の亡命に近かったのかもしれない。かれらもやがて幕府滅亡の戦乱に遭遇するが、帰る国とてなかった。帰れば禅僧たちは侵略者・元を讃えることになるのだし、元はラマ教を崇拝し、中国禅宗はみずから頽廃期を迎えていた。唐代仏教の二大聖地で遣唐僧らがさかんにおとずれた天台山・五臺山は、現在も清代のみすぼらしい建物が点在するのみで、文革以降、復興も進んでいないが、すでに天岸和尚の時代にも、かつての栄華はうかがうべくもなかったようだ。

荒れ果てた天台山の寺々のうちにも
国清寺はなおくずれた垣根の中にそびえている
生き身の菩薩を見た閭丘と豊干はどこへいったか
寒山と拾得に出会うこともない
谷々の流水は双澗に合い
切れ切れの雲は五峰に流れつづける
禅と聖教との、蝸牛の角の上でのつまらぬ争いに
つかれはてて、この霊場はほろびさってゆくのか
 (天岸慧広「東帰集」より「天台山にて」)

 寒山・拾得は宋代の伝説の詩人で、菩薩の化身といわれたが、風狂の人で掃除夫のような貧僧の身分を離れなかった。ここでは、山や川はもとのままでも、寺はさびれ、かれらを見に集まった多くの参拝者も、かれらのような立派な行者も、もうここにはいない、といっている。


天岸和尚(頂相彫刻より、CG復元)。たいへん耳の大きな方だった。



多くの帰化僧を優遇した北条高時の廟(宝戒寺の徳宗権現)。
 幕府滅亡後、禅のあらたな庇護者となった鎌倉公方府で活躍した高名な詩人に、義堂周信(1325-88)がいる。夢窓にまなび、詩文集「空華集」のほか日録「空華日用工夫集」など多くの著作があり、五山文学の代表者と目されている。公方のブレーンとして円覚寺黄梅院にはいり師・夢窓をそこにまつったほか、西御門に報恩寺などをひらいた(※廃寺・ただし本尊は来迎寺に現存)。公方基氏のもとで無惑良欽、古先印元、大喜法忻、天岸らと一堂に詩作したりもした。ただ五山もすでに鎌倉ではなく京五山へ、中心を移しつつあった。都を慕う詩がある。

三年禁城の遊びを作(な)さざれば
幾度か東風に客愁を喚びぬ
今日暮簷(ぼえん)の春雨の裏(うち)に
花に対して猶認めたり旧風流を
 (義堂周信「雨中対花」)

さまざまな病が有漏(煩悩)の身をこもごもに侵すので
余生はほとんど亡霊と同じようなものだ
こんなおれが、かえって笑っている、若者(弟子)たちが、
いまむなしく散る花を手にとって春を留めよう、とするさまを
 (義堂周信「空華集」より「病中戯作」)

 弟子たちを教訓したり励ましたりする詩もある。月見をたのしむ若者に月の桂を折れ(試験に受かれ)とさとしたり、そうかとおもうと、俗世では正月だと騒いでいるようだが、じじいは眠い、訪ねてくるな、と喝破したり(「中秋」「歳朝」)。むなしく散る花、とは無常をおしえさとすたとえであるとともに、義堂自身の別号「空華散人」を暗示するもの、でもあった。


居士林(円覚寺)。



天柱峰の最勝塔と最勝岩(浄智寺裏山)。ここは竺仙の墓でもあった。
 五山文学についての一般書はけして多くない。仏教全書とかには入っているのかもしれないが、一般の図書館ではなかなかみつからない。今回は岩波の旧古典文学大系(えんじ色のほう)や小学館の新編全集などを参照したが、ほんのさわりでしかない。岩波新体系(よもぎ)の解説者はそもそも日本の漢詩・漢文そのものを非難しているくらいだから、和歌などとくらべ学界の関心も低いのだろう。

 昭和の初め、浄智寺の奥に住んだイギリス人研究者の発案で裏山にひとりの詩僧の碑と石塔が建てられた。この碑にも詩がのせられている。学者がダメなら、解読してくださるお坊さんでも、ないものだろうか。

妙高峯頂經行處
最勝岩前静坐時
喚醒蓬莢張八佰
笑将鐡笛順風吹 
 (竺僊梵僊「天柱集」より)


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