トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第5号 


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もちださんの鎌倉リポート No.5(2007年9月30日)



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海の果て・1



建長寺から。
 三島由紀夫の短編「海と夕焼」は、建長寺勝上見の展望台を愛する人ならたぶんご存じだろう。蘭渓が連れてきたアンリという老奴隷が、実は十字軍時代のフランス人少年の、なれのはてであったという話。

 少年はアラブの奴隷商によって宋に売られたという設定になっているが、大航海時代以前はアラブ人による海のシルクロードが営まれていた史実にもとづいている。明代の航海家・鄭和もアラブ系回教徒の出身らしい。鄭和が「アラビアを発見」するはるか以前、モロッコの人・イブン・バッテュータ(1304-68?)が紅海から東アフリカ、中国を探検しているから、航路自体は相当早くからひらけており、ただ中国側の記録に乏しいだけなのだろう。インド僧金剛智・不空らも海から中国に来た。平泉金色堂の象牙細工も、アフリカ象のものだった。

 15世紀末、バスコダガマの開いたインド航路は、マラッカ攻略、マゼランの世界一周、サビエルの聖フランシスコ(1506-52)来日と、驚天動地の展開を見せる。が、実朝や時宗の時代には、まだフランスなどは未知の領域で海の向こうの幻ですらなかった。海はいまの何万倍もおおきかった。

 行基式日本図の海のなかに描かれる羅刹国とか、女人国などという空想の国々は、当時の中国の迷信がそのまま伝わったものである。やがて西洋人がおとづれ、日本に南蛮式の世界地図が伝わったのちになっても、中韓では長い間、自国以外を矮小に卑しく表現した独自の解釈による世界地図を頑固に作り続けていた。アメリカも、オーストラリアも、ただ異様に小さく描き加えただけだった。


葛原岡。鎌倉をめぐる山々は「境界」と考えられてきた。



銭洗弁天裏。「境界」からは、いたるところで海が見える。
 「海」という文字は暗い水、こんとんとした未知の世界をあらわしている。中国沿岸は黄土の堆積によって、有明海のような遠浅の干潟が分布している。遣唐船のみならず地元出身の鑑真でさえ、遭難したのは大洋ではなく、すべて沿岸部だった。

 世界初の中国旅行記を残したのはもちろん日本人だ。円仁の『入唐求法巡礼行記』はきわめて史料価値の高い日記であり、成尋の日記『参天台五臺山記』、短いものでは「唐大和上東征伝」「入唐五家伝」をはじめとする日中往来の高僧伝、「六国史」にみえる遣唐使記録の断章など、その数は少なくない。玄奘の「西域記」などが無味乾燥な地誌であることと比較しても、写実性をむねとする平安文学の筆力は卓越したものだ。

 中国の貴重な典籍も京、鎌倉、福原(平氏の都)にあふれていた。「唐物語」をはじめ、中国を舞台とした和文の読み物、創作も多い。『宇津保物語』ではペルシャも登場する。仏典が古代インドを舞台としているのはいうまでもない。京都東山の霊山も稲村ガ崎の霊山も、釈迦が法華経などを説いたインドの地名に由来している。

 いっぽう、天竺に旅立った高丘親王や新羅に逃げようとした藤原広嗣など、海外に現実離れした憧憬をいだくものもすくなくなかった。天竺に極楽浄土を夢見た明恵上人や、かの実朝将軍も、そのひとりだった。


長谷寺から。



大町、妙法寺あたり。
 ただ、その夢は叶わなかった。かりに実現したとしても、幻滅しただけだったにちがいない。かれらは楽園の夢を見ていただけだった。20世紀のある時代にたとえるなら、西側から東側をみてあこがれていたひとのたぐいであったのだろう。ほんとうは海を渡る必要なんかなかったのだ。中世には数多くの亡命僧が、むしろ中国から日本を目指しやって来ていた。かれら唐僧たちは、日々鎌倉の山の上から、海の果てを眺めていた。そして元寇が良好だった日中の歯車を変えてゆく。

【注】勝上見(しょうじょうけん)※ は当て字。正確には「見」は山かんむりに「献」。外字。以下、同じ。


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