トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第50号 


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もちださんの鎌倉リポート No.50(2008年10月10日)



No.49
No.51



五山文学をめぐって・2



宝物風入れ(建長寺)。
 建長寺、円覚寺には「塔頭」という小寺院がいくつも付属している。ざんねんながら非公開のものが多く、残念ですね、といっても坊主や和尚はただ笑うだけだ。

 これらの寺院はいまも住房や修行の場、はたまた幼稚園などに利用されているため、史跡説明板すらないが、もともと中世の高僧の塔所(廟所と門弟の住坊が一体化したもの)で、名のある詩僧のものもあった。長い歴史の中でほとんどは灰燼に帰してしまい、文化財として頂相(肖像)や法語、法衣などをつたえるものは半分もないが、全盛期のようすは『鎌倉五山記(群書類従・所収)』に列挙されている。かつて五山にははるかに多くの塔頭があった。

 建長寺の項の最初に記す開山廟・西来院はいまもある(レポ11)。大覚禅師蘭渓道隆(宋1213‐78)の卵塔があり、無学祖元(元1226−86)の墓もある。開山の遺品とつたえるものは多いが、ここの秘宝「蘭渓の円鑑」は、形見の小鏡の中に金色の菩薩の影がうかびあがるというもので、水戸黄門などおおくのひとが拝んだ。「宝物風入れ」のさいに展示されているので、他の参拝客の迷惑にならない程度のちいさなペンライトを持ってゆくとよい。

 蘭渓の弟子・約翁徳倹(1244-1320)は龍峰院。南浦紹明(1237-1309)の天源院、高峰顕日(1241-1316)の正統院も現存する。正統院はもともと浄智寺にあり、夢窓国師が円覚寺舎利殿背後に正続院(円覚寺開山・無学の塔所)をうつしたさい、その跡地に骨壷ごとドミノ移植したもの。江戸時代にはかなりの荒れようで、沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」にはこうある。

 「正統庵は夕べに扉をも閉ぢず、人住まざれば夜は獣のすみかと見えたり・・・尊像(高峰の頂相・現存)もいまは露しづくに潤ふ。後門の方をみれば唐様に刻みなしたる曲几、くずれ埋づみてあれども、誰収むる人もなし」。


百観音。宋代はやった中国風の観音百面相のうちの一体(円覚寺方丈)。


 伽藍の西にのこる宝珠院は了堂素安(?-1345)の塔所。このひとはJRのトンネルを抜けた先の谷戸に法泉寺という寺(廃寺)を建てた。その鐘が東京・麻布の寺に伝わっている。建長寺から了堂に贈ったもので銘文は清拙が撰した。宝珠院の西南にあった広徳庵は古先印元(長寿寺・京都等持院開山1291-1374) の塔所。置き文1348などが残っている。

 北条高時がまねいた清拙正澄(元1264-1339)の禅居院はみちをへだてた総門の向かい。ここには春屋妙葩(1311-88)の龍興院もあったという。春屋は夢窓の弟子で、留学経験はないが竺仙や清拙に漢文をまなび、足利幕府の初代外交僧(僧録)として活躍した。語学に優れ、明で洪武帝をはじめ多くの高官と贈答して文名をとどろかせた詩僧・絶海中津(1336-1401)の師でもある。

 玉雲庵は一山一寧(元1248-1317)の塔所であったが、総門の左手に江戸時代再興されたのちいまは廃絶している。伝燈庵は西澗子曇(宋1249-1306)、これも普門橋のつきあたりにあったらしい。明極楚俊(元1262-1336)の雲沢庵は方丈の東にあったという。語録の写本がある。中巖円月(前号参照)の梅洲庵は亀ヶ谷坂の南にあって、かつては保寧寺をおさめていたらしいが、いずれも廃寺だ。

 円覚寺の項の筆頭、黄梅院は義堂周信らが華厳塔付近につくった夢窓国師の塔所。正伝院は甘縄・万寿寺に草創された明岩正因の塔所で、のちに鈴木大拙などもすんでいる。大休正念(宋1215-89)の蔵六院はレポ6にのべたようにもともと寿福寺にあった。法語などは宝物風入れでみられる。太平記にでてくる南山士雲の塔所・伝宗庵についてはレポ13に触れた。曹洞宗系統の異色の僧・東明慧日の白雲庵は、本国の白雲寺にちなんだものという。有名な仏日庵は開基北条氏をまつる檀那塔。

 その他、寿福寺には明菴栄西の逍遥庵、浄智寺には南洲宏海の蔵雲庵、竺僊梵僊の楞伽院などの記述があるがいまはない。

 到底すべてを書き尽くすいとまはないが、名僧の庵といえども廃絶したものはすくなくない。災害は名前を選ばないし、長い年月のあいだには弟子がふるわない場合もある。「五山記」は公方府が滅び去る1455年ころまで書き継がれたものらしいので、そこにないものは比較的あたらしい塔頭ということになるようだ。


白鹿洞のなか。



道灌が仕えた扇谷上杉舘の跡。線路の向かいにある英勝寺が太田氏の館跡とつたえる。
 名僧たちは権力者のよきアドバイザーであり、外交や文書作成、文化政策に活躍した。したがって戦国の世、公方が鎌倉を去り文治がもたらす一定の平和が終わりを告げれば、かれらの教養も宝の持ち腐れになってゆく。知識人があらたなパトロンを求めて四散してゆくのは免れ得ないことだった。

 万里集九(1428-?)という人はもとは京都相国寺の僧であったらしいが詩文の才をもって放浪生活をした。学問にあこがれる初期戦国大名のたぐいに寄食し、画賛を草したり詩作したりしていたようだ。詩文集「梅花無尽蔵(群書類従・所収)」の巻二では、太田道灌(1432-86)をたずねて江戸城に下っている1485。

 江戸城はレポ8に記したように、公方府滅亡ののち、扇ヶ谷などの館をひきはらって築城したもの1457。いまの皇居東御苑(徳川時代の本丸)あたりがまだ自然地形であったころ、川をせき止めて濠とし、曲輪をかさね、富士をのぞむ静勝軒という風雅な楼閣をかまえた。やはり流浪の文化人であった心敬(1406-75)・宗祇(1421-1502)らをまねき、「やまぶき」の説話でも知られるように、道灌は詩歌や学問を愛した。だが、その名声と実力の高まりに嫉妬した主君上杉定正によって、相模国糟屋の館で突然誘殺されてしまう。近年、伊勢原市でその地と見られる館のあとが発掘されている。

 万里は、そうして思いがけず江戸を去り、鎌倉を旅した。建徳寺なる寺を拠点に、寿福寺、当時小町にあった人丸塚、下馬にあったという畠山塔、長谷寺、大仏、浜の大鳥居、若宮千度小路(段葛)、八幡宮と見学し、またの日は円覚寺・明月庵などを歴覧。また江ノ島にもうでたり能見台、浄妙寺をめぐり「廃寺(未詳)」をたずねた。ついで建長寺、荏柄天神、瑞泉寺一覧亭・・・。連日のあわただしい参詣は信仰のため、というよりかなり観光に近い。詩作で生計を立てるための取材旅行だったのか。

 「荒れ果てた大仏の胎内は、博徒の棲家となっていた(此中往々博奕者白昼呼五白之処也)」というくだりは、このとき記されたものである。荏柄天神には兵火のあとがなまなましくのこっていた。公方府滅亡後30年、すでに鎌倉は江戸初期と大差ない体たらくになっていたようだ。

 相国寺の鹿苑院僧録(副官・蔭涼軒)といえば外交僧として足利時代の政治をリードしたが、幕府の衰退とともに有名無実化し、五山の文化は立ち枯れてしまう。にせものの「日本国使」がアジアに横行したのも、カネで買えるお手軽な印刷経典が流行したのも、みな禅の頽廃と、表裏一体をなしていた。「汝〔なれ〕や知る都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても落つる涙は」(応仁記)。都でもまた、応仁文明の乱が残りなくすべての権威を破壊しつつあった。


円覚寺(正続院)。



方丈(建長寺)。コンクリートの建物の一階では抹茶も。
 さて、斉田地蔵など、非公開文化財をおがめる宝物風入れは、毎年、文化の日前後に建長・円覚寺で三日間ほどおこなわれている。

 とりわけ有名なのが建長寺の国宝・蘭渓道隆画像。重要文化財・北条時頼木像や宝冠釈迦像などは、明るい場所でごく間近にみることができる。円覚寺の開山箪笥や伝衣箱には南宋〜明代の法衣・九条袈裟などがそのまま残っていることが調査でわかってきた。もはや舶来の珍宝にあふれていたという旧日の観はないとはいえ、高僧の衣鉢を継いだひとびとは、文字通りその衣や鉢などの日用品の数々を大切にのこしてきたのだ。

 仏画、水墨画などの画軸、青磁の花瓶、彫漆類、古絵図、経典・法語、工芸、考古資料・・・。著名人の古文書類が書院の壁やかもいに無造作にぶら下がっているさまはあきれるほどだ。書跡の一部などはよくみると質感に欠けた複製がまじっていたりもするが、それもご愛嬌。そもそも混雑のため、じっくり見学するのはむずかしく、とくに古文書を読むには相当の異能がひつようだが、足利尊氏や北条時宗など、知っている名をつぎつぎに見つけるだけでも充分にたのしめる。


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