トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第53号 


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もちださんの鎌倉リポート No.53(2008年11月26日)



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縁切法



円覚寺舎利殿。写真は大正時代のようす。
 かつて尼五山というのがあったという。西御門の太平寺、山内の東慶・国恩寺、東御門の護法寺、衣張山の禅明寺をいう。いまは尼寺ではないが、東慶寺だけが「縁切り寺」として残っている。この東慶寺は北条時宗の妻・潮音院覚山志道大姉(覚山禅尼1252-1306)という人がひらいた。このひとは円覚寺の奥、黄梅院のところに今はなき「華厳塔」をたてたりもした。

 太平寺の由来はもうひとつ古く、頼朝が命の恩人である故・池禅尼(平頼盛の母・レポ28)にむくいるため、その姪の願いによって建立したと伝える。「家族に煩わされることなく、女が自由に出家できるようにしてほしい」。縁切法のルーツはここにある。

 江戸時代はじめ、鎌倉を訪れた平戸商館長の英国人リチャード・コックスは、およそ次のように述べている。「尼寺は売春窟であり、豊臣秀頼の娘が棲んでいる。聖所なので女たちを救い出すことはできない(1616)」。

 まるで反日系外国人の的外れな妄想のようだが、じつは当時の日本のおとこたちはみな、そう考えていた。自住軒という若い男は「ここにすむ女は、主君を背き夫を疎み継母を疎み、すなほに世を渡るわざのならぬ者のひきこもる所なり」といい、当時、犯罪者のたまり場という印象をもたれていた「薦僧(虚無僧・普化宗)」にひとしい、と断じている(1680)。太宰春台などの儒学者も「淫売と同じだ」とはげしく非難していた。

 江戸時代にはやった朱子学(儒教の一派)の女性観は、およそそういうものだった。女に重大な落ち度があるにもかかわらず、一方的に縁切りされたあわれな夫、という事例もなかったとはいわない。しかし外国人にまでいいつけなければならないほど、すべての夫が正しいか。守るべき存在だったのか、といえば、たぶんちがう。むしろ外国人にへらへら、へらへら追従しながら日本の悪口ばかりを吹き込んでいる連中の、いまもかわらぬ下品な姿が、彷彿とする。


成仏を願う女(「平家納経」模写)。



もとは西御門太平寺の仏殿で15世紀初めころの建築と推定されている。
 中国伝来の「二十四孝」には、歯の弱い姑のため嫁が乳首をふくませてやっただの、貧家の老婆がまごに食事をわけあたえてやせ細ってゆくため、若夫婦がたまりかねてわが子をその手で埋め殺しただの、狂気としかいいようのない、さまざまな「孝行」がしたためられていた。

 朱子学は儒学の一変態で、性理学ともいう。「理」と称するドクトリン(原則)をたてて宇宙の原理と主張、人間の「性(さが)」をねじ曲げてでもそれに従わせる学問、語弊を恐れずにいえば、そうだ。大宋はなぜ契丹や金国や蒙古に惨敗したか。社会が一致協力して強硬姿勢を貫き抗戦しなかったためだ、そう朱熹(1130-1200)らはかんがえ、教育機関が国家および個人を根底から改造するための洗脳思想に道をひらいた。

 中国愛好家にとって、嫁からの「縁切り」などたんに家族間の問題のみならず、みずからの理想と体面の問題、いうなれば「中国を中心とした文化的世界観」「先進的な朱子学にもとづく中華風身分思想」なるもの(=宇宙原理)への反逆にひとしかったわけだ。いまでいう教育者やマスコミ、進歩的文化人ら言論界のインテリ・エリートたちは、みずからが恃む理論体系にいっさいの異論・例外を許そうとはしなかった。つまり朱子学とは、そういうものだった。

 だが、鎌倉時代は違っていた。まだ母系社会、婿取り婚の風習がねづよくのこっていた。「御成敗式目」などをみても、女が養子をとって家を継いだり、比較的公正な財産分与をうけたりと、かなりの人格権がみとめられている。「沙石集」でも、つった魚をひとつのこらず自分だけが食うという、陰湿なまでにケチな夫を「不当の者なりけり」と追放し、逃げてきた女をよくぞここまで耐えた、と褒め、帰宅させる地頭の裁きがみられる(巻7-16)。そもそもサザエ(娘)が私財を投げて出家するのにマスオ(婿)の許可などひつようだろうか。

 男尊女卑がとうぜんとおもわれていた江戸時代、鎌倉にだけこんな中世のアナクロニズム(時代錯誤)がいきた化石のように息づいていたわけは、中世を思慕した流浪の公方・足利氏の影響力がのこっていたためだ。太平寺や東慶寺を再興して「尼門跡」を入れていたのは足利公方家であり、古河や小弓(生実)、喜連川(これは女系)などに現実の家系が落ちぶれていても、そのむすめは格式どおり代々これらの寺に迎えられていた。徳川家康も鎌倉の中世法をおもんじ、たとえば年貢の石高制についても、わざわざ永楽銭に換算した後北条時代の貫高制をのこすなど、この町を中世さながらの特区あつかいにしていた。

 これにくわえて、家康の娘・千姫(天樹院)が養女としてつれてきた故・秀頼のむすめ(天秀尼)が足利氏に代わって東慶寺へ入寺した。すでに豊臣家のむすめであったり嫁であったりすることは、時代に背くことだった。殉死だけが残された美徳であるといういびつな思想の毒牙からのがれていきるためには、縁切寺法という時代錯誤の禁じ手をつかわざるをえなかったのだとおもう。


江戸時代の夫婦。くわしくは「藝術新潮」1996・6月号。



東慶寺あたり。
 「おほかたこの日本国は、和国とて女の治め侍るべき国なり」。室町時代屈指の文化人・一条兼良は日野富子にごまをするため「小夜のねざめ」にこう書いた。しかし、寺社奉行をまきこんで公権力と化した縁切寺法は、江戸時代を通して蛮習としてうとまれつづけ、明治になり廃止されてしまう。

 公認の縁切り寺はもうひとつ、上州世良田・満昌寺などがあったが、けっきょく葵の紋所によって救われた女は日本全体のうちのごく少数でしかなかった。理解を得られなかったもうひとつの理由は「道徳の二重基準」、すなわちうむを言わせぬ「逆差別」にあった、ともいえる。当代一流の思想家たちがこぞってアジアの眠れる社会を模倣し、男尊女卑を深めてゆく社会の潮流に背を向けて、ただその場しのぎの独善を振り回しても解決にはならない。ゆがんだ知の暴力に対抗し、欠落したモラルを構築してゆくには、だれもが納得できる、きちんとした「言葉の力」がひつようだった。

 日本人は話し合いが苦手である。異論を挟んだしゅんかんに埋められてしまったひともいる(=連合赤軍あさま山荘事件)。北朝鮮による拉致をうったえてきた被害者家族は「でっちあげ」を主張するいちぶの大手言論勢力に徹底的にいびられた。「だまれ。」硬直したコミュニケーションの構造はたんに夫婦間の問題のみならず、社会全体に、そのまま敷衍されているにちがいない。ドメスティック・バイオレンスの基盤は、いまなおこの社会全体に、広く根深く、しみついているのだろう。

 空気を読め、だまって従え、と合唱する不寛容社会の傲慢さをおもうとき、私はいつもサド侯爵がおぞましき空想の限りを尽くして描き出した、途方もない【変質者たち】による、次のような命令を思い浮べてしまう(「ソドム百二十日」澁澤龍彦訳)。

 「おれたちはお前たちにしてもらいたいと思うことを、いつもはっきりとは言わないから、さように心得ておくがよい。身ぶりや目つきや、時によってはほんの些細なおれたちの心の動きによって、お前たちは、おれたちが何を望んでいるかを判断せねばならぬ。もし合図があったにもかかわらず、そうした命令を実行しなかったり、または合図を理解できなかったりした場合には、やはり罰を受けることになろう。おれたちの感情の動きや、眼ざしや、身ぶりなどを識別し、おれたちの顔色を読みとることこそ、お前たちの勤めなのだ。」

 「あのひとが、そんなことをするはずがない」「おまえはうそをついている」。外に向かってはごますり以外、なにもしゃべれないような腐った手合いが身内に向ける、どあつかましく理不尽な欲求の数々。いくら人間が「社会的な動物」だからとはいえ、被害者はいつまで従順な蟻や犬でいられるだろう。


舎利殿は「風入れ(11月)」や初詣などのさいに公開されるようだ。



古図に描かれた円覚寺華厳塔(古絵図をリライトしたもの)。いまの黄梅院観音堂の奥のところ。
 松ヶ岡御所とよばれた門跡のことは「唐糸草紙」(レポ30)にもみえていて、当初唐糸御前を保護した縁で頼朝の「引渡し要求」にも頑として応じず、唐糸が梶原景時に奪還されたあとも、その無法を強く抗議した。そのため殺すに殺せず、石牢に生かしておいた、・・・という物語の重要な伏線になっている。ただし史実では後醍醐天皇の皇女・用堂尼(東慶寺5世)というひとが入ってから門跡となったらしい。また冒頭にのべたように、かつては東慶寺より太平寺のほうが上座であり、初代公方足利基氏の妻・清渓尼による中興という。戦国時代、小弓公方足利義明のむすめ青岳尼が里見氏に拉致され廃寺になった顛末は、戦国のロマンスとしてよくしられている。本尊・聖観音は東慶寺にうつされた。

 太平寺の仏殿はいま円覚寺正続院に国宝舎利殿としてのこっている。実朝が前世にすごした宋・能仁寺から入手したという伝説の仏牙舎利をおさめたものだが、覚山尼の華厳塔が失われてしまったかわりに、べつの「女の遺跡」が移したてられたことになる。華厳塔の地は夢窓国師の塔所黄梅院、舎利殿のある正続院は開山・無学祖元の塔所になっていたから、こうした「ゆかり」は長くわすれられていた。清渓尼時代に復興された太平寺の建築遺構とわかったのは昭和のなかばすぎてからのことらしい。


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