トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第54号 


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もちださんの鎌倉リポート No.54(2008年12月10日)



No.53
No.55



尊氏の墓



長寿寺の尊氏墓。
 尊氏の墓はたぶん京都・等持院にあるのが正しいと思うが、東国での文献には「長寿寺殿」とあるように、長寿寺の分骨塔が正式な墓とかんがえられていた。現存のものはつぎはぎだらけで、とうてい当初のものとは考え難いが、初代公方である息子・基氏により遺髪を納めたという廟がこのあたりの場所にあったことだけは、たしかなようだ。

 栃木の一大名にすぎなかった尊氏が、縦横無尽にかけまわり日本を席巻するにいたったなりゆきは、『太平記』や『梅松論(群書類従所収)』にくわしい。尾道の海沿いにある浄土寺に、古来「尊氏の墓」とつたわってきた宝筐印塔【写真3】は、無記年だが当時の古塔として堂々たるものだ。この寺は九州落ちから起死回生、湊川で楠正成をやぶった1336年に本陣となったゆかりがあり、優れた肖像画も残る。それで現在でも「供養塔」、という説明がなされている。

 「室町幕府を開いた」のは初代・尊氏とされるが、もちろんそれは学術用語にすぎず、京都室町北小路に花の御所をたてて安住したのは三代・義満の代から。名実ともに全国政権であったといえるのも、ごくわずかな期間にすぎない。尊氏の代にはまだ南朝の激しいテロがあり、都を失うことも二度や三度ではなかった。

 京都に幕府を置かざるを得なかったのは、北朝の護衛という意味がおおきい。王朝の復興をかかげた後醍醐天皇は、王朝どころか生前に多くの皇子を戦死させ、火だるまになって吉野に逃げた(南朝)。もうあとがないところまで追い込まれた南朝は、弱体化すればするほど凶暴化し、手段を選ばぬ瀬戸際戦術ですごんできた。かれらにとって、北朝は「敵」であり、「天皇家」などではなかった。

 そんななか、観応の擾乱がおきた。弟・直義を討つために急ぎ南朝に降伏を申し入れ、当面の和睦をむすんで鎌倉に下った尊氏を都にふたたび呼び返したのは、そこまでやるか、というほどの徹底的な背信だった。


京都・等持院にも尊氏の墓。植え込みに隠れているが、大きな基壇にのっている。



浄土寺(広島県)の伝・尊氏墓。
 尊氏がるすの間に、南朝側は北朝の天皇を退位させたうえ、三上皇をねこそぎ拉致していった(正平一統1352)。弱者がつよいイデオロギーに貫かれているのに対し、強者はつねに目先の平和にこだわり、安易な約束とうかつな軽信とを繰り返してしまう。幕府を公認してきた北朝のとつぜんの消滅で、征夷大将軍の威信はおおきくゆらいだ。それは天皇制そのものにとっても、両刃の剣だったにちがいない。都という組織を失った天皇家など、もはや漂泊の神道集団にすぎなくなった。「王朝」の夢は、ますます遠いところに行ってしまった。

 尊氏・義詮おやこは朝廷(北朝)の再建、三上皇の返還交渉、南朝に投じた故・直義の猶子・直冬(じつは尊氏の実子)らの討伐と、山積する難問に忙殺された。このころ元弘以来の戦没者供養(レポ42)などを盛んにおこなったのも、現実の危機と表裏一体をなしていた。

 死因は背中のできものが悪化したためという。54歳。なりゆきまかせ、出たとこ勝負の梟雄の晩年は、破天荒で横紙破りの功臣(高師直)と、政治を譲ったきまじめな弟(直義)との確執に巻き込まれ、かれらをともに失った。大正時代、革命をめぐってアナ・ボル論争というのがあったように、自由と統制は時計の振り子のようなものなのだろう。どこまでも自由を信じ、あらゆる権威を否定して混迷する無秩序の世界を突き進むのか。安定に向け、統治機構を地道に再構築し、緻密でしたたかな権威主義をはりめぐらせるべきなのか。尊氏にはたしかな路線はなかったといってよい。

 マルクスが「アジア的停滞」とこきおろした近隣国のひとびとは、室町幕府をどうみていたか。対馬侵略に狂奔した大明朝鮮国王セジョングの間者・尹仁甫という者は「世宗実録」(二年十月、1420)に次のように述べている。「将軍の命令はただ都近くの地面におこなわれているだけで、土地はみな強宗(大名)に切り分けられており、事ごとに依違(したがったり、したがわなかったり)するのみだ」。

 封建社会の諸大名はただ戦争していたのではなく、生存・発展のための競争をしていた。主を失った庶民は、自立自活のために生きるすべを磨いていった。これにたいし、アジア一般の停滞した初期奴隷制社会においては、主人が肉を食っていると自分が餓えていてもうれしく、王が贅をつくした生活をきわめているとわがことのように誇らしく思えるのだ。さらに、その王をも奴として世界の土地を支配している宗主国文化の立派さ、中華皇帝の強大さがなによりも頼もしく、わが父母のように思う。いたずらにその力を恃(たの)んでわけもなく威張りちらし、排外的強硬姿勢を業として、ふかく満足してきた。

 歴史用語の「封建制」・・・古代中国の封建制度とは同音異義・・・とは、さらに数段階上の社会構造=生産様式とされるのだから、かれら隣国のひとびとには、とうてい理解しうるものではなかったろう。身の程がわかっていたなら、何世紀ものあいだ日本への無意味な挑発など続けてこなかったにちがいない。


金閣。



銀閣寺東求堂の同仁斎。古典的日本家屋「書院造」は足利氏の発明であることがよくわかる。
 尊氏がもたらした弱肉強食・混迷の社会は、彼自身にはたぶん、なにも与えなかった。だが、私たちの生活には確実に何かをもたらした。それを学ぶことこそが歴史のいみなのだと私はおもう。

 そもそも尊氏はなぜ、挙兵したのだろう。まず『太平記』などがのべているのは、元弘合戦1333の直前に父・貞氏が没し、その仏事もはてぬうちに得宗・北条高時から強硬な呼び出しがかかり、いわれなく人質をとられた上に出征させられ憤慨したという説。「今度は当将軍の父、浄妙寺殿御逝去一両月の中也」(『梅松論』) というのが幕府の公式見解だった。ただ、近年の精査によれば、貞氏の生没年を(1273-1331)とする資料も有力で、このばあい、高氏(尊氏)はすでに笠置攻め1331で喪中に従軍していたことになる。

 貞氏の母は北条時茂(執権政村の婿・常葉家、1241-70)のむすめ。正妻は霜月騒動1285に連座し、のち復権した金沢顕時(1248-1301)の娘で、尊氏の異母兄・高義(早逝)を生んだ。尊氏の妻は執権・北条(赤橋)守時の妹(レポ17)であり、足利家と北条氏との結びつきはなお浅からず、というべきで、目に見えぬ対立がどのあたりに根ざしていたかがポイントとなる。



・足利貞氏の墓。塔身の梵字は南面だけ仏像の浮き彫りになっている。
 祖父・報国寺殿家時の遺書に従った、という説は『難太平記』などにでている。家時の没年はいっぱんに1317年(系図)、1309年(位牌)、ないし1343年(寺伝)などと伝えられてきたが、レポ17でのべたように尊氏の年齢とのつじつまが合わず、これではあまりに荒唐無稽なのでどうしても近年有力な説、「1284年没(推定35歳?)」とする資料(三河滝山寺記録)をとらざるをえない。

 福島金治氏の論文「安達泰盛と霜月騒動」(『有鄰』469号)には「弘安7年(1284年)4月、北条時宗が没すると貞時が継承し、泰盛は外祖父として幕府政治の前面にでてきた。平頼綱らと結ぶ大仏宣時らは、有力御家人の一人、足利家時を自害させ、六波羅探題の佐介時国を討った」とみえている。『北条九代記』には翌年、一族の吉良満氏と見られる「足利上総三郎」が霜月騒動で討たれた、と記す。

 霜月騒動で討たれた安達泰盛は幕府に残った「さいごの有力御家人」だったらしい。もともと北条得宗家一門や御内人(得宗被官)にとっては御家人勢力はじゃまものだった。とりわけ重商政策をとる御内人にとっては、領地の農本制度に依存する旧態依然としたものにうつった。徳政や倹約令をうったえる安達氏がわと、礼金や賄賂で成り上がり、自由奔放に肥え太ってきたあたらしいタイプの指導者・平頼綱(レポ13参照)とが対立するのは、自然な成り行きだったといえよう。

 伝説では足利家に古来八幡太郎義家より伝わるオカルト風の巻物があり、「7代目の子孫であるおぬしに天下を取らせよう」と書いてあった。7代目の家時は「時至らず」と観念して若くして切腹し、その命に代えて、まだ見ぬ孫に夢を託した・・・などというのだが、現実には、案外つまらない権力闘争の犠牲者に過ぎなかったらしい。家時の遺書があったということ自体は、現存する直義の自筆書状に書かれているため事実のようだが、直義がそれを目にしたのは挙兵のずっとあとであることが、その書状の日付からわかる。

 こうしてみると、尊氏ら御家人筋の怨恨相手というのは、祖父を討った平頼綱と同じ得宗内管領の長崎果円・高資(頼綱の甥父子)だったかもしれない。おそらくそうなのだろう。もちろん時代はとどまることなく動いていた。北条幕府を討ち果たした尊氏じしんの内にも、やがては「内管領のようなものを重んじる心」が生まれてくる。弟直義よりも、高師直をえらんだのはその表れかもしれない。こうした無意識のパラドックスこそが「バサラの時代」、室町文化の原動力になっていたのだ。



浄妙寺門前にたつ下馬退凡の塔。宝筐印塔の残欠としてはだいぶ大きい。
 報国寺には家時の墓とつたえる石(現・宝筐印塔)がある、と江戸時代の地誌にも記されている。むろん当初のものではないらしいが、家時と尊氏直義の母はともに上杉氏だから、上杉宅間亭があったこの地に遺骨が守られてきたと考えても、そう不自然はない。

 貞氏の墓が浄妙寺にあることはまちがいないが、現在のものはおそらく追善塔のうちのもっとも出来のよいものらしい。南北朝さいごの年にあたる明徳三年二月二十四日(1392)の銘があり、京の将軍・義満への謀叛をもくろんでいた公方・氏満の時代のもの。当時、足利家の廟所「光明院」という塔頭(檀那塔)があったためか、かつては多くの石塔が立てられていたらしく、その残骸があちらこちらにある。

 分骨をめぐっては、義満が父・義詮(宝筐院)のものを浄妙寺に、公方満兼が祖父・基氏(瑞泉寺)と父・氏満(永安寺)のものを浄光明寺に移すなどした記録があるというが、それらはけっきょく、所在がわからなくなっているようだ。


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