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もちださんの鎌倉リポート No.55(2009年1月8日)



No.54
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一遍聖絵・1



インド・ベレナス。
 インドの聖地では、ひとびとが生死の境界をのりこえるためにやってくる。生きる苦しみは前世の因業とかんがえられ、インドではいまも非人(ダリト)を卑しむカーストの遺制がのこっている。輪廻によってもたらされる業因の種はひとびとの自我(アートマン)にあるとされた。救いの道は自我を捨て去るほかになかった。

 一遍智真(1239-1289)の伝記を実録風にえがいた鎌倉時代の貴重な絵巻「一遍聖絵」1299には、施行にあずかるおおくの非人乞食が点景としてえがかれていて、人間のあらゆるくるしみを知覚できるようになっている。一遍らは財とするものを何ももたず、あまった布施をみなかれらにあたえていた。さすがにインドの、中世さながらの貧困が残るとされる山村などには行ったことがないが、ベレナス(バラナシ)などの観光地をちょっと垣間見ただけでも、釈迦や、一遍、マザーテレサらの使命感が身に迫るように感じられる。マザーはもらった絨毯さえ、窓から捨ててしまった。

 一遍は法門のうえでは浄土宗西山派にあたり、空也上人の遊行念仏や大原の良忍の融通念仏などの影響も受けている。融通念仏勧進(札くばり)や念仏踊りの興行、非人たちへの施行はあたかも他人のための慈善行為のように見える。しかし一遍の目的は違った。じぶんを下根の者と見定め、往生にいたるまでの残りの日々を、つねに臨終の時と観念し、自我を、もちものを、そしてみずからの確信(意楽=いぎょう)さえも、すべて捨て去ってただ「無私」の念仏にいたるために蕩尽する行、のようなものだった。

 六道輪廻のあいだには、ともなふ人もなかりけり
 独り生まれて独り死す、生死の道こそかなしけれ。
 わずかに命を継ぐほどは、さすがに人こそ供養すれ
 それも当たらずなり果てば、飢え死にこそはせんずらめ。

 かつてこの絵巻を修理したさい、絵の具の下に当初は一遍が半裸のみすぼらしい姿で描かれている部分すらあった、という。「この僧は日本一の狂惑の者かな」と評され、かえって喜ぶというくだりの部分(巻四)だ。絵巻を制作・執筆した歓喜光寺の聖戒は一遍同行の側近で、実弟という説もあり、おそらく当初の絵が真をつたえているものとかんがえられる。


一遍の銅像(相模原市・無量光寺)。



坂者を引き連れた一遍の一行が念仏を唱えながらやってきた巨福呂坂ふきん。
「また云う。生きながら死して静かに来迎を待つべし、と云々。万事にいろはず、一切を捨離して孤独独一なるを死するとはいふなり。生ぜしも独りなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり。添い果つべき人無き故なり。また、我が無くして念仏申すが死するにてあるなり」(「一遍聖人語録」岩波文庫1985、68話)。 

 一遍はただあてもなくあるいた。全国をくまなく巡ろうとした、というよりほかに法則性のようなものはたぶん、ない。没落武士の子として生まれた愛媛から高野、熊野、本国、鹿児島神宮、京都因幡堂、善光寺、奥州に流されて死んだ祖父の墓、鎌倉、大津関寺、京四条・市屋道場、丹波、太子廟、書写山、厳島、香川善通寺などをめぐり、病をおして神戸光明福寺にわたったところで死んだ。51歳。

 念仏踊りはある種のショーだ。和讃などを合唱し、気分が高揚してくるとあとは南無阿弥陀仏(なーむあーみだーぶ)の六字を連呼し、鉦をたたきながら輪を描いて踊る。盆踊りのルーツのひとつでもあり、やぐら舞台を設けて見本の人が踊っているのにちょっと似ている。見にきた人に「決定往生」という札を配り、豊かな人からは寄付を集め、貧しい人に配る。はじめは札配り(賦算)だけをしていたが、同行の門弟(時衆)がふくれあがったためにいつしか旅巡業の一座のようにもなっていった。生涯に配った札は25万枚とも、200万枚におよんだともいう。

 笑顔で踊っている人に混じって、一遍は心ここにあらずというのか、厳しい顔をしている。同行の中には、往生を信じなければいっときも生きられない、行き詰まった事情を抱えた時衆もおり、感極まってみずからの手で往生してしまうケースすらあった。在世中は布教もゆきずりのものを中心としており、安定した生活をいとなむ在家信者を対象とした浄土真宗などとは、かなりちがっていたようである。


この橋の付近に境界があり、関の石神(おしゃぶきさま)などがいまも散在する。



夕闇の光照寺。ありがたいことに、まだ戸口があいていた。
 1282年3月1日、鎌倉にやってきた一遍とその集団は、巨福呂坂の木戸のところで、北条時宗の一行に真正面からつきあたり、追い払われてしまう。「名声を得たいのなら、無礼なまねをしないことだ」とすごまれた一遍は、ただ命の限り念仏を勧めているだけだ、幕府としてこれを止めようというのならちょうどいい、いまここで臨終しよう、と一喝した。

 この木戸というのはいまの北鎌倉駅のあたりで、明治時代に掘られたちいさなトンネルがある土手の張り出しふきん、という説がある。一遍が野宿をしいられたところは「かくれキリシタンの門」でしられる光照寺の建つ地であるとされ、絵巻ではその日のうちに鎌倉の市民から多くのカンパがあつまった。やがて一部の高僧からも見舞いの手紙が届いた。その僧(宅間の公朝僧正)のもとを訪ねたようにもみえるが、町に入ったかははっきりせず、一遍らは江ノ島近くの片瀬の浜に拠点をもうけ、仮屋をたてて数日間、念仏踊りを興行した。

 紫雲が立ち、蓮華の花が降ったという「奇跡」の噂は、このとき起こった。ただ一遍は、「花のことは花に問え」と、群集心理の幻には一切とりあわなかった。

 自我を捨てたところには「自分」も「他人」もなく、人と仏との差別も存在しなくなる。当然、救ってくれる阿弥陀も、救われる自分もなくなる。時衆にとって、往生はもはや決定項であり、求めるものでも授かるものでもない。一遍はこれを「念仏が念仏を申すなり」と表現した。すべてが名号【南無阿弥陀仏】に帰一する、という世界観は密教の曼荼羅世界(即身成仏説)や、禅のいわゆる「本分の田地」にも通じるようにみえる。

唱ふれば、仏も人もなかりけり。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

 一遍はじぶんの著作をのこそうとしなかった。だからかれの思想は伝記「聖絵」やのちにまとめられた「法語集」から推定せざるを得ない。一遍一行は、宗旨にこだわらずきわめて多くの寺社を参拝している。わかり易そうでいておくぶかい、そこが私たちをひきつける。民芸学者の柳宗悦氏は「南無阿弥陀仏」という本で礼賛し、法然・親鸞のうえに位置付けたほどだ。


六字名号の板碑(無量光寺)。


 一遍に対して同時代にはさまざまな批判もあった。「天狗草紙」というのは、さまざまな天狗が各宗派にはびこって仏教を脅かすという内容の絵巻であるが、時宗批判の部分だけが異様なまでに克明で、しかも悪意に満ちていることでもよくしられている。堕落した僧、堕天使として描かれる天狗の正体はくそとんび(鳶)で、一遍に花を降らしたりしたが、やがて穢多の若者に食われて死んでしまった、などと結んでいる。

 そこにえがかれる情景は破滅的カルトとしての偏見にもとづいているが、「だまされる愚かな民衆」にたいする侮蔑もかいまみえる。天狗はもともと星の精をさすことばだったが、我執にみち思い上がった増上慢の僧が自己愛の果てにおちいるものといわれた。「天狗草紙」の作者が一遍にむける見苦しいまでの嫉妬も、あるいはおなじ魔物の一種だったのかもしれない。


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