トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第56号 


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もちださんの鎌倉リポート No.56(2009年1月11日)



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一遍聖絵・2



賦算(藤沢・清浄光寺にて)。
 一遍の死後、あとをついだ弟子の真教は、やがて老衰のために神奈川県相模原市原当麻の無量光寺に引退し、3世上人に遊行をたくした。その後、隠居所は藤沢市の清浄光寺(【遊行寺】)にうつり、鎌倉公方の熱烈な崇拝をうけて寺としても繁栄した。

 傍流は京都にも拠点をもうけた。「聖絵」を制作した聖戒は@六条河原院歓喜光寺をひらく。そのほかA四条道場金蓮寺、B七条道場金光寺、C市屋道場金光寺(同名異寺)などがつくられた。これらは江戸時代に衰退し、@は錦天満宮などをへて現在は山科にうつった。Aはいま鷹ヶ峰にある。Bは東山長楽寺に合併、昨年その宝蔵がやけて一遍像などがかつぎだされたことを、おぼえていらっしゃる方もあるかもしれない。

 下写真の染殿院はもと四条道場の塔頭で、平安時代からあった無縁の古寺の名跡をついだもの。四条道場じたい、祇陀林寺釈迦堂という古寺の名残りだった。あらたまって寺をつくることを宗祖一遍がきらったからだ。

 このような寺々が成立しても、時宗の中心はやはり諸国遊行だった。その目的は札くばり(賦算)で、聖絵によれば、熊野権現が託宣で、信不信、浄不浄をきらわず配れと一遍につげたからという。江戸時代になると統制が厳しくなり、上人は大本山の遊行寺に止住して、遊行はいわば地方信者を訪ねる形式的な行事になっていったが、身分、信心をとわずてあたり次第に賦算してゆく「無縁の宗教」の活力は、急速に失われてしまった。

 敵味方かかわりなく、親疎の差別もなく利益し供養する、というかんがえかたは古くからあり、「法界平等の利益」という言葉(レポ34)にしめされている。元寇の賊を供養した円覚寺の願文にもおなじせりふが見えているし、敵を呪い殺すより成仏させることこそ真の調伏というものだ、と夢窓国師もいっている(夢中問答集)。だが、じっさいに危険な戦場へ出てむくろをひろったり、切腹する落ち武者にであって念仏をさずけてやったりする命知らずの活動は、日々を臨終と観念する時宗の僧の独壇場だったのかもしれない。


京都の繁華街・新京極入り口に残る。「聖絵」にえがかれた四条踊念仏ゆかりの地。



遊行寺にのこる南部茂時墓。北条高時とともに自害、安国によって埋葬された。
 5世安国(1279-1337)らが元弘合戦で陣僧となり、北条方の侍にも念仏十念をさずけてやったことをうかがわせる自筆書状(佐久市金台寺文書)がのこっている。鎌倉幕府最後の日の一次史料は軍忠状などごくわずかなので、ルポルタージュとしてもたいへん貴重な内容になっている。

鎌倉は、をびただしき騒ぎにて候つれども、道場はことさらに閑かに候つるなり。そのゆへは、繁く来さふらふ殿ばらは、みな合戦の場へむかひ候つれば、留守の跡にて別事無く候。闘ひの中にも、寄せ手・城の内ともにみな念仏にて候ける。同士討ちしたり、とて後日に首召さるる殿ばら、これの御房たち浜へ出て、念仏者にはみな念仏進めて往生を遂げさせ、いくさの以後はこれらをみな見知して、人々念仏の信心いよいよ興行、忝なく候。命延び候へば文申し承るべく、あなかしこ。南無阿弥陀仏。
 (5月28日付他阿安国上人かな消息)

 時宗はこうして乱世の宗教として位置付けられていった。無頼の戦国時代、大量殺人を余儀なくされた弱小の権力者はまた、人一倍その怨霊をおそれたからだ。

 時衆(ないし関連宗派)のひとびとは、近江番場で凄惨な集団自殺を遂げた北条仲時一派をほうむったり、越前で敗死した新田義貞の遺骸を荼毘に付したりした。遊行寺にはまた上杉禅秀の乱における敵味方供養の碑がのこっていて、1418年、遊行14世太空のころのものという。また12世尊観のころには後醍醐天皇の遺影をまつるなどした。教科書にも載っている、あの有名な掛け軸がそれだ。

 「鎌倉年中行事」によれば、公方と藤沢上人との面会が恒例行事化されていたことが分かる。いったん強大な江戸幕府が成立してしまえば、犠牲者の霊だとか「無縁」のひとびとの感情なんかは、もはや恐れるに値しないものとして抹殺されてゆくが、鎌倉公方の時代にはまだ、そうでもなかったらしい。敵の遺骸を掘り返して八つ裂きにし、いちじるしい場合にはその肉を食って恨みを晴らした近隣諸国の儒教文化とは、ほとんどその思想を異にしていたといわざるをえない。


怨親平等供養碑。南無阿弥陀仏の碑面の下に「応永廿三年・・・」云々の銘文がある。



無縁墓(別願寺にて)。
 名越別願寺のふきんはかつて傘(からかさ)町といわれ、小町屋が密集した大町の辻のほど近くであるが、そこに公方持氏の墓というのがつたわっている(レポ33)。とくに根拠はないらしいが、別願寺にあてた持氏の自筆書状などものこっており、後世、その由来がわからなくなった「無縁」の古塔を法要にもちい、公方の霊を慰めたことがあったのかもしれない。覚阿公忍というひとが弘安年間にひらいたとされ、この地にはもと能成寺という古寺があったともいう。

 材木座の来迎寺は能蔵寺という古寺の地にたち、石橋山合戦のころになくなった三浦大介ゆかりの堂がある。西御門来迎寺には、頼朝法華堂や義堂周信の報恩寺など、周辺の廃寺からあつめた仏像があることでしられる。十二所光触寺の頬焼阿弥陀の伝説は、もともとまったく別の寺にあったものらしく、頬焼阿弥陀縁起絵巻には比企ヶ谷岩蔵寺(廃寺・未詳)だといっている。いずれも小さな寺に無縁の仏を守っているところが、いかにも時宗らしい。

 江ノ電終着駅の藤沢にある遊行寺には、宝物館(開館日・日曜など)があって古文書、仏画類、法具、「遊行上人縁起絵巻」(聖絵とはべつの絵伝)などがみられる。また三が日など行事のある際には、遊行上人がにこやかに「南無阿弥陀仏・決定往生六十万人」のお札をくばり、いあわせた者ならだれでももらえる。賦算のあいだ、供の僧侶たちの「なむあみだぶ」の美声が、うたうようにひびく。

 当麻道場無量光寺は、JR相模線にのりついでゆく。郊外の宅地のはずれにひっそりたたずむ地味な寺だ。古参の弟子であった2世真教は、宗祖の死後教団の確立をはかりながら中風で眇目になり、1303年ここに腰を休め、晩年をすごした。相模川の河岸段丘のしたには田畑が広がり、相模の神奈備・大山がくっきり見張らせる。かつてここには渡しがあり、宿(しゅく)とよばれる部落がさかえていたという。本堂跡には一遍の銅像が建ち、てまえに板碑群、みぎに仮本堂。分骨塔のほか、一遍木像として最古のものをつたえるが、「聖絵」の末尾にえがかれた御影堂像ににていて、かずある肖像の中でも、もっとも人間味をたたえていている。


無量光寺は、JR原当麻駅から河岸段丘をいったん降りたところの低い丘にある。



一遍智真(現存最古の無量光寺像をもとにCG復元)。
 境内の池は、生前の一遍がみずからこの木像を作るために姿を映したとつたえているが、かれじしんがここを訪れたかどうかさえ、じつはさだかでないらしい。ただ、グロテスクなまでにデフォルメした神秘的なお像がおおいなかで、かれがたしかに実在した生身の人間だった、そうおもわせる彫刻としてのすぐれたちからがある。近世の補修もあるというが、文化財としての価値は指定の有無にあるのではない。諸般の事情からイラストでしかお見せできないのはざんねんだが、機会があればぜひ実物か写真をごらんになっていただきたい。


 鎌倉時代の鎌倉の絵は、「聖絵」にでているのがほぼ唯一のものである。ほかには「蒙古襲来絵詞(竹崎絵巻)」など数例しかない。こうしたものが、かならずしも当の鎌倉でみられるわけではない。歴史の断片はあまりにちいさく、しかもパズルのピースのように、各地に、あるいはふるい本のあいだに、ちらばったままだ。


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