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もちださんの鎌倉リポート No.57(2009年2月17日)



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たたり神について



蛇苦止堂からみた蛇形の井。
 蛇苦止堂は比企・妙本寺の石段の左かたにある。つきあたりをのぼりつめると堂があり、右手に湧き水の池、と祠に祀られた井戸がある。

 比企の乱1203で、前将軍頼家(1182-1204)の室・讃岐の局は池に飛び込んで死んだ。父・比企能員は討たれ、わが子・一幡は殺された。はるかのち文応元年1260、連署北条政村のむすめに、その霊がとりついたのだという。讃岐の霊はこう語る、北条への恨みによって今は蛇身となってこの池に住み、みずからも火炎の苦しみを受けているのだ、と。

 讃岐の弟だった比企能本は、このことを日蓮上人に相談、姉の霊を救うために法華経を供養し、ここを日蓮宗の寺にしたのだ、と寺伝はいう。ただ十二巻本「北条九代記」には弘長元年1261十月、験者は日蓮ではなく若宮別当だったと記すなど、文献により小異がある。

 怨霊にまつわる事件はあとをたたなかった。頼朝は安徳天皇らの亡霊をみて死んだとされ、実朝は和田義盛の霊夢をみた。八幡宮の別社・今宮1247は後鳥羽上皇ら承久の乱にまつわるものである。

 ただし、ジャクジという神については、「石神問答」という有名な本がある(ちくま文庫版「柳田國男全集」15巻所収)。全国に分布しながら、その正体のよくわからない、民俗学的なたたり神のひとつなのだそうだ。石神をはじめ、守宮神(スグジ)、赤口神(シャグジ)、また御左口司(ミシャグチ)などと書くこともある。

 こうした民俗神は鎌倉にもすくなくなく、北鎌倉の十王堂ふきんにあった「おしゃぶき様(咳のおば様)」などという石神もそのひとつだろう。おちゃぶき、といってお茶をそなえたり、おしゃもじさま、などと訛って杓子をまつる例もある。これらの伝説には特定の型があり、柳田氏によれば、姥石などといって水死した女にまつわる言い伝えをもつものも多いという。


祇園山のふもと、八雲神社。



新釈迦堂の跡にたつ竹御前の墓。
 以前もらった妙本寺の栞によれば、比企能本は幼児のあいだに乱をのがれ、京都の朝廷に仕えて文人となり、大学三郎となのった。佐渡の院に供奉するなどしているうち、やがて竹御前(1203-1234)ゆかりの者ということで藤原将軍の家臣となり、学者としてお家を再興したという。

 実朝が落命し、北条氏らは京の摂関・九条家から藤原三寅(頼経1218-56)という藤原将軍をむかえた。この頼経もかすかに頼朝妹の血を引くのだが、実朝の養女になっていた二代将軍頼家のむすめ、竹御前・源〔女+美・よし〕子を正室として将軍継承のつじつまを合わせたのだ。この竹御所も讃岐の局の生んだ、比企の乱の生き残りのひとりであったらしい。

 竹御前は幼児として下向してきた頼経将軍よりだいぶ年上だったためか、夫婦生活の実態はあまりなかったようだ。夫13で輿入れ、夫17で難産のすえ早世、ときに32歳。産所となった時房の邸には、町小路で評判がたかかった「明石の神子」なる民間の祈祷師までよばれたというが、験はなかった。

 生前、一家惨殺の記憶が残る比企邸に御所をつくり、のち彼女の墓所となるその持仏堂を「新釈迦堂」と号した。御所は納涼の地としても知られていた。日蓮寺院「妙本寺」としての実態をそなえるのは実はずっと後世のことで、鎌倉時代には「竹の御所」、のちしばらくは比企ヶ谷の新釈迦堂とか法華堂とかよばれていた。

 本堂の左、いまは墓地となっている新釈迦堂あとの入り口には、万葉集研究遺跡なる碑がたっている。これは新釈迦堂において「万葉集」を校合・注釈した堂僧、律師仙覚(1203-72?)を記念したものだ。「万葉」は竹御所の養父・実朝将軍遺愛の書物だった。

おほうみのいそもとどろに、よするなみ。われてくだけて、さけてちるかも。


実朝と和歌(江戸時代の絵入り本※)。



佐竹入道常元以下十三人の供養塔。
 この実朝の歌は万葉の名歌を本歌取りしたものだが、「畏きひとに恋ひわたるかも」という笠女郎のあざやかな恋の歌とはちがって、感情の実体がない。死に憧れたりする世間知らずの若者が、砕ける波をただみつめているような、どこか不健康な印象すらある。

 しょせん文学など現実の生活には敵わないものであって、ひたすら芸術なんかに打ち込み、定家にファンレターまで出した実朝将軍には、もともと生活実感が欠如していたにちがいない。子供もおらず、竹御前や公暁を養子にし、その公暁にころされた。「愚管抄」の著者・慈円という人は、「親の仇はこう討つんだ」と叫んで斬りかかっていった、暗殺者の武勇のほうをほめている。はためにもそうなのだから、幕府にとって、かれは少なくとも重い存在ではなかった。

 仙覚の「万葉集」校訂本は頼経将軍に献上するため1246年に着手、補訂は仙覚の生涯つづけられた。また注釈書「仙覚抄」も本格的なものとしては史上はじめてのもので、江戸期に契沖・真淵がでるまで重んじられた。これらはもちろん、あの世の実朝をなぐさめるいみがあった、のだろう。

 新釈迦堂の悲劇にはさらに別の話もある。足利公方持氏は、上杉禅秀の乱に加担した人々を圧迫し、情け容赦なくせめほろぼした。レポ7にもふれた佐竹入道常元は家督相続に介入される屈辱をなめたあげく宅間上杉憲直の手のものに襲われ、わずか13人がここ法華堂(新釈迦堂)にこもって自害したという1422。その供養やぐらが竹御前の墓の手前、左の崖にぽつんとあり、ちいさな碑がたつ。

 佐竹氏の鎌倉邸は大町の大宝寺の地にあり、その裏山は砦だったという。その裏山に向かう登り口のひとつが妙本寺にあり、常元はそこへ向かおうとしていたのか。祇園山ハイキングコースの別の登り口にある大町の八雲神社は、かつて松童という祟り神だったが、佐竹合戦ののち、かれの霊を祀って佐竹天王ともよばれた。

 「松童社」の呼称は「吾妻鏡」の記述1228にまでさかのぼる。もともと八幡本社にまつわる御子神で、社殿などはなく、摂社高良社の床下にすむという強烈な祟り神であったらしいが、やがて春日・北野など、ほかの神社などにも広がっていった(柳田「妹の力」・同11巻)。


佐竹やぐらの碑。



比企ヶ谷の朝。
 謀叛におびえたわかき公方は、その怨霊にもとりわけ敏感だったようで、佐竹を祭ったことは「鎌倉大草紙」にもでている。佐竹氏は新羅三郎源義光の末、おもに常陸沿海部をおさめた大名家だった。大宝寺には新羅三郎の墓という供養塔があるが、八雲神社にも義光のお手玉石などというものがあり、佐竹天王とされた時代のゆかりを残す。

 天王とはほんらい祇園神の牛頭天王をさすが、寿福寺かたわらの八坂神社が相馬天王とよばれていたことはレポ35でものべた。現在はスサノヲノミコトとされるにすぎないが、この神もじっさいには古来日本の御霊神やインドの竜神、大陸由来の鎮疫神などが何層にも重なり合って、複雑に習合したものであった。

 京都の祇園社の床下には竜の住む井戸があるという。また神話では高天原を追われたスサノヲが朝鮮のソシモリというところに流される。「真相は渡来人・八坂氏の祖神で、朝鮮がルーツ」などとさかんに説く人もいる。だが、「真相」なんてものはラッキョウの中心にあるという身のようなものにすぎない。中世の人々にとっての神はもっとえたいの知れぬもので、いくつものおそろしげな顔をもち、かならずしも明治以降の祭神整理のような、こざっぱりしたものではなかったのだ。






【注※】このもちだ所蔵の版本は江戸時代のものですが、著作者名がわかりません。ご存知の方はおしえてください。


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