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もちださんの鎌倉リポート No.58(2009年3月7日)



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御猿畠



大切岸からみたお猿畠。
 名越のトンネルを逗子に出てさいしょの踏切のあたりに、白い猿のついたふしぎな山門がある。猿畠山法性寺という。コンクリの法面がめだつ殺風景な坂をだらだらとのぼってゆくと本堂があるが、そこを通りすぎて奥の院にむかう。

 堂の左脇には日朗の廟になっているやぐらがあり【写真6】、その壁上は山王祠として石塔などがたっている。そこからの眺めは良い。日蓮宗はもともと天台法華宗のながれをくむため、比叡山延暦寺の鎮守、日吉山王権現の信仰をおもんじた。かつて日吉の神使(つかわしめ)である白猿の群れが、弾圧された日蓮・日朗らをたすけ、避難先としてここに至らしめた、のだという。ふきんの崖には、かれらを養うためお猿たちがつくったという、段々畑様の地形がひろがっている。

 鳩サブレでもしられるように、八幡の神使はハトであり、春日は鹿、熊野は烏、松尾は亀などといいならわされている。ヤマトタケルが伊吹山のイノシシに出会ったなどといっているから、信仰のいわれは深いらしい。近江の己高山には、ずばり猿の形の日吉神像がつたえられている。つまり神使は神そのものでもあり、日蓮らを真の法華の行者と認めたからこそ助けた、というのがこの説話のミソである。

 お猿たちの正体を日蓮をかくまった信者たち、浜のアジール(レポ23・24)につどった非人・賎民や俗聖、商工業者のたぐいとみるのもたしかに、ひとつの解釈だろう。お猿畑ふきんにいた「石切」「黒鍬」などの坂者もまた、かれらの仲間たちだった。だが無神論に慣らされたわたしたちがもつ現実感とはべつの感受性が、中世の人々にはあったということを忘れるわけにはいかない。


切岸上部。(右)の写真ではむかってひだりが大町側の斜面。(左)は切岸直下の平場をのぞむ。



墓地から見た大切岸。上の写真はこのあたりの崖の上から。お墓の下の石垣は「掘割」とされるぶぶん。
 お猿の「神話」にはルーツもある。「宇津保物語」の主人公・藤原仲忠は幼いころ、一時的に零落したことがあった。仲忠とその母は、北山の奥にあった杉の木の洞(うつほ)にくらす。天界からつたわったという琴を弾きならいつつ、懸命にたべものをさがす仲忠の孝養が天につうじたのか、さまざまな奇跡が起こるが、なかでも猿が母子をまもり、食べ物をたてまつったというくだりは印象的だ。

 このばあい北山の奥というのは賀茂神話における御蔭神社を暗示しており、その裏山は比叡山であって、仲忠が神の子(みあれ)であることを表現しているらしい。さらに題名ともなっている「杉の洞」は円仁和尚の横川根本杉の伝説にもまつわる。

 お猿畠伝説ではいま日朗廟になっているやぐらに隠れ籠もった、というかたちに転訛しているが、民俗学的にいえば、流されること、「うつほ(柩〜母胎を暗示)」にこもることは仮死であり、神となるひとがより強く大きな力をもつための通過儀礼、復活・再生の物語だった、ということになる。

 日蓮・日朗らについてのあらましはレポ31・32でのべた。そもそも平頼綱の襲撃を受けた松葉ヶ谷の草庵がどこであるのかはっきりしないので、その足跡をたどるにしても心もとないが、どうせなら逃避行にふさわしく、できるかぎり人けのない、荒れはてた山林をたどるというのも、オツなものだろう。

 黄金やぐらの手前をまっすぐにいったところ、大町の最奥はまだほとんど畑になっていて、つきあたりの畑の右手にかぼそい山道が倒木をぬって続いている。とうていお勧めできるような道ではないが、悪路をたどってうんざりするような急斜面をのぼりつめると、そこは浅間山の中腹で、富士山を望む展望台のある、ふたつのピークのちかくである(たしか、このへんにあるやぐらを浅間山南やぐら群とよんでいたとおもう)。つまりハイランドの「こども自然ふれあいの森」から名越切通し方面にむかうハイキングコース、にでたわけだ。

 名越方面にすこしゆくと、「犬走り」とよばれ両側が深い崖になっている尾根の稜(かど)を通るところがあり、そこが大切岸のうえにあたる【写真2】。


大町奥の畠。大根がほしてあった。大切岸の裏にあがる山道は荒れていて相当つらい。



物見台だった(?)山王祠の石段から。のぼりきると逗子駅方面がみおろせる。
 お猿畠のいちばんてっぺんの、塀状になっているぶぶんが大切岸だ。もともと尾根はm字状になっていて、まんなかの尾根を大きく断ち割ってひとつながりの岩壁をつくっており【写真1】、割ったぶぶんにやぐら群や掘割、奥の院が存在する。山王社の岩山は意図的に削り残したもので、もともとあった尾根のなごりである。

 大切岸の造作があまりにも大規模であるため、ほとんどは近世の石切場だなどという説がなされたこともあった。しかし中世山城ややぐら・寺院遺構などの構築時期を総合的に考えると、とうてい受け入れることは出来ない。ただすべてが鎌倉時代のものともいえず、公方府の時代にも、後北条の時代にも三浦との対立はあったし、要害としての造作はつづいたろう。

 小規模な切岸なら鎌倉のいたるところにあり、子供のころ名越の奥の畑の、さらに奥の林の中などでもみつけたことがある。今回、大町側の斜面にはそれらしいものはみつからなかったが、名越切通しの周辺にはお猿畠のみならず山城のような鱗郭(平場)が無数にあるらしい(詳細は河出書房新社「ふくろうの本・図説鎌倉歴史散歩」新装版2000、p34)。

 名越山頂石廟ちかくの洋館のところから、法性寺墓地に下りるみちがある。墓地のなかのちいさな岩山の裏が、奥の院だ。前述のように、そこをおりてしまうともうコンクリの法面しかみえないので、しばらく墓地の通路を右往左往してお猿畠の景観を楽しむことにする。墓地の先には実際の畑があり、そのむこうは利用されずにススキがゆれる茅場(かやば)状態になっている段がおおい。

 厚い岩盤のようにみえる大切岸であるが、上を通ってきたわたしたちは、裏がわも深い崖であることを知っている。その底は大町のうす暗い畑であることも。洋館のところから下におりずにまっすぐゆくと「まんだら堂【※注】」「名越切通し」で、その裏側はやはり深くおちこんでおり、むかし切岸をみつけた、あの名越谷の最奥にあたる。

 大切岸は名越切通しの小坪がわの出口にある貯水タンクのあたりからつづいていて、名越山上石廟の前を大きく断ち割って浅間山の東のピーク、ハイランドの水道施設付近でおわっている。そのさきの東泉水、あるいは池子の方面は、造成などによってもはやたしかめるすべがない。


奥の院のかたわらにある日朗廟。五輪塔をおさめ、裏面にもやぐらがある。



山門の後ろの法面はすでに殺風景なコンクリートがつづいているにすぎない。
 知る限りここで本格的な戦闘がおこったことはないようだ。まんだら堂は空中都市としてはあまりにちいさく、本格的な籠城にはむかない感じだし、お猿畠もせいぜい陣地ていどでしかなかったらしい。壁が守ろうとしたのはやはり、鎌倉の町だったのだろう。

 この堅牢な絶壁が西側にあったなら、元弘合戦は多少ちがったものになったかもしれない。だが、あろうことかひとびとは、戦争という過去の歴史をせせら笑うかのように、たあいもないお猿の楽園とのみ語り継いでいった。そんな忘却の歴史もまた、歴史なのである。




【※注】まんだら堂  名越切り通しにもうけた山城遺構の本丸にあたるぶぶん。平時、葬送の場として利用されていたためこの名がある。( このまんだら堂については、「鎌倉好き」のpokoさん、hiroさん等のページにくわしいお写真が掲載されています。)
【お知らせ】 もちだのレポートは今月で終了します。どうもありがとうございました。


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