トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第59号 


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もちださんの鎌倉リポート No.59(2014年10月11日)



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御最期川



田越橋
 逗子・田越川の別称を御最期川という。正盛から六代・平家直系の息男でありながら頼朝に赦され、仏道に入った六代御前(1173-99?)が、ある日とつぜん斬られた所だという。

 田越橋ちかくの交番の脇をはいると、ちいさな木立がある。塚の上の槻の木の本に、ささやかな墓碑があって、ここが平家最後の地であったことを示している。あまりの美貌を惜しんだ文覚上人の奔走により、少年は無事成長し、おだやかな修行の日々をおくっていた、そのはずだった。



川沿いの交番の裏手に塚がある
 六代については「平家物語」などのほか、謡曲にも数多くうたわれた。「庵六代」は、母子で潜伏中、北条時政に逮捕されるシーン。「初瀬六代」は初瀬観音に母が涙ながらにいのる場面。「斉藤五」は忠臣とともに連行中、ついに斬られるというその寸前、赦免のしらせがとどく。

 「維盛」は滝口聖とともに、六代御前が熊野那智に父の亡霊をたずねる、という話。父はまだ妄執に迷っているようにもみえたが、こういって六代を慰める。「一子出家すれば七世の父母まで成仏なり・・・残り留まる六代が、身を捨てて弔ふに、などか仏道成らざらん。軍体とみるも修羅と見るも、ただこれ魄霊(はくれい)の夢幻なり。疑ひをなさで称名の御法をなさせ給へ」。



碑の下に石塔の断片が
 父・三位中将維盛(1158-1184)はふつうにいえば清盛の嫡孫で、小松大臣重盛の息男にあたる。しかし豪放な清盛と実直な重盛との仲はわるく、清盛は娘・建礼門院と同腹の三男・宗盛を溺愛していたため、重盛の早世ののちは事実上、嫡系からはずされていた。

 そもそも清盛自身も、「白河法皇の落胤」とされるなど父忠盛から嫌われ、六波羅池殿は弟・頼盛にゆづられた。頼盛の母は池禅尼といい、まま子の清盛と対立、死罪となるべき頼朝を助けたことでも知られる。後年頼盛は平家一門の都落ちにも従わず、公然と源氏を支持しつづけた。

 維盛の場合も、とくに叔父宗盛の母・二位尼時子から憎まれていたらしく、富士川の合戦、北陸の合戦でたてつづけに潰走してからは、「わざと負けた」「池殿(頼盛)のようだ」、とうたがわれた。運もなかった。愛妻は平家打倒・鹿ヶ谷の陰謀の成親の娘といい、おなじく成親の妹を母とした弟・清経は、先に長門で入水して果てた。


 いたたまれなくなった維盛は八島の陣中から姿をくらまし、高野山にいた瀧口入道(かつての家臣)をたよりひそかに出家。そのまま熊野那智の海上で、いのちを絶った。かの地では海の向こうに観音浄土・普陀落世界があると、ふるくから信じられていたのだ。

 鎌倉には頼朝が平家滅亡を祈ってたてたという普陀落寺がある。ただ、寺号のしめすところは海に沈んだ平家の、とりわけ維盛の菩提往生をねがうものではないかとおもわれる。一門残党を慰撫する必要もあったはずで、帰参した平家筋のひとで八幡宮の社僧になったものもすくなくないという。六代は助命ののち15歳で出家(号・妙覚)、高尾神護寺に住んで三位禅師とよばれていたが、鎌倉に下って頼朝と面会したこともあるらしい。神護寺の伝頼朝像とペアになっているのは祖父重盛の像とされる。



槻の木はケヤキの古名
 とつぜんの死刑は二代将軍頼家の世になってから。ただ頼朝薨去の直前、1198年ともいうし、文覚二度目の配流をめぐり1205年ともいう。場所も、一説には駿河国千本松原(長門本)とか、六浦坂などと、「平家物語」の諸本によって、一定していない。三左衛門事件1199とのかかわりや、母の再婚相手で関東申次にあった吉田経房の死1200などが有力視されているものの、政治的な背景は未詳だ。

 「三位の禅師斬られて後、平家の子孫は長く絶えにけり」で「平家物語」の本編は終わるが、後世には落人伝説やご落胤伝承ものこった。平家嫡流の子孫をなのる人物にはかの織田信長がいる。もちろん確証はなく、こんにちの研究では先祖は藤原氏かなにかだったのでは、とされている。


 落人狩りはしれつを極めたらしく、平家物語の広本(増補版)である「源平盛衰記」には、こんな哀話ものこる。源氏の探索にかかった6歳の子供は、都から肩車されてはるか蓮台野の墓地につれ去られた。

 ・・・継いて走りける男、風情無く走り寄つて取つて抑へて、膝の下に押し交ふかとすれば、やがて頸をぞ切つてんげる。頸をば古き石の卒都婆の地輪にすゑて、上なる練貫小袖にて刀押し拭いて、身をばそばなる堀に投げ入れて、やがて走つて帰りにける。(巻47)

 狂乱状態の母親は、ある僧にすくわれて尼となった。ふところには常に形見の車のおもちゃと、その子のくびを抱いていたので、「ドクロの尼」とささやかれる。翌年尼は亡夫供養のためと大阪・天王寺詣でにいったまま、ひそかに舟を出し、「極楽の東門」ともいわれた難波の海に、身を投げた。



浅間山から逗子をのぞむ
 田越川は境界地とかんがえられ、承久の乱で三浦胤義の子息がきられたり北条氏が六万泥塔を供養したとの記録からも、一種の刑地になっていたと思われる。国木田独歩のころには砂丘もひろがっていた。逗子の大墓、とつたわる場所もあるが、とくに中世の人骨は見つかっていないらしい。

 上流は神武寺の麓をへて、ひと山こえると田浦の船越というところにいたる。三浦半島を両断する船便は、この川の水運を利用して最短距離を人夫がかついで越す。実はこのルートは古東海道と推定されていて、横須賀側にでてからは走水より房総へと海の道がつづいていた。それゆえ上総のほうが下総よりも「上」なのだ。東海道が武蔵路につけ代えられてからも、海運ルートはなお後世まで継続していただろう。


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