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もちださんの鎌倉リポート No.62(2014年10月18日)



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神奈川について



慶雲寺
 大船周辺を「戸塚市」なんて自嘲する人もいるそうだ。商店街のはずれがもう横浜市栄区(旧・戸塚)。いずれももともとは相模国鎌倉郡内だったのだが、旧市内だけがほんとうの鎌倉で、「市内方面」なんてあからさまに書く地図もある。鎌倉郡はいまの瀬谷区あたりまでひろがっていた。

 京都奈良なんかだと、宇治とか天橋立、室生、吉野なんてあたりも、こだわりなく含めてしまう。鎌倉だけがなんだか縮み志向なのは、どこか田園調布とか芦屋とかいう、不動産屋特有のイメージなのかもしれない。古都としては物足りないのも、道理。しかし中世の鎌倉は、そんなけちなものではなかった。



上無川跡
 県名になっている神奈川は横浜駅の北東にあった中世の港町で、地名の由来となった上無川は埋め立てられ、すでにない。京急やJRなどの車窓からみても明らかなように、お寺が異様に多い、という所がその名残。

 開国当初にイギリス領事舘がおかれた浄瀧寺はかつて、ひとりの尼が日蓮聖人に奉ったという伝承がのこっていて、船問答で寺をささげた六浦・上行寺の縁起と同じだ。北条氏や八幡宮、称名寺らからさまざまな特権をうけていた問丸などの豊かな住民(有徳人)がやがて後ろ盾をうしない、法華に転じた。品川(下無川)など、中世の湊にはそういう寺がいくつも分布する。中世経済はたしかに未熟な点もあったろうが、徳政一揆をまねくなど、社会に与えた変革は絶大だった。



洲崎明神
 湊はやがて東海道の宿場町となり、幕末の開港直後は建設中の巨大な「出島」=横浜をみおろす「神奈川の台」が繁華街だった。弥次喜多が美女につられた料理茶屋はもちろん十返舎一九の創作だけれど、龍馬の未亡人おりょうが働いていた料亭なんかは、いまも営業している。

 そのふもとの方に頼朝が安房から勧請した洲崎明神があり、同様の神社がやはり品川などに分布。社殿のすぐ裏山は北条早雲と扇谷上杉が戦った権現山の古戦場。かつては岬で、神奈川台場の埋め立てなどでだいぶ切り崩されふつうの公園になっている。

 いまの横浜の中心部は中世、みじかい砂州がよこたわる、ただの浅瀬にすぎなかった。弘明寺などの古寺や吉良氏の蒔田御所、大田道灌が出たという南太田のあたりはだいぶ内陸側だ。埋め立てによって横浜港の居留地ができるまでのわずかな間、神奈川の多くの寺が列強各国の仮の領事舘となっていた。



乙姫は「亀化龍女神」。慶雲寺
 六浦湊の伝説が「小栗判官」なら、神奈川湊は「浦島太郎」。フランス領事舘がおかれた慶雲寺には寺碑や浦島観音と称するものが伝わる。厳密に言えばもとは子安の観福寿寺というところにあったが、火災ののち日蓮宗蓮法寺に買得され、ここに本尊などの由緒物が移されたようだ。旧地にも亀趺(碑の台座)のようなかたちをした「塚」がのこされている。

 太郎の父・浦島太夫はじつは三浦の人で、伝説の本場・丹後天橋立には「ただ移住していただけ」。とってつけたような話だが、鎌倉時代、北条幕府が「関東御免」の船によってはるか日本海側の海運をおさえていた、というのがこの話のミソ。伝説もまた、北陸のゆたかな商品とともにやってきたのだろう。本牧あたりでは「お馬流し」といって、茅でつくった馬とも亀ともつかないものを海にながす行事がつたえられている。



蓮法寺の塚と浦島寺碑(慶雲寺)の亀趺
 明治期にやってきた紀行作家のシドモアは、この伝説を「日本のリップ・ヴァン・ウィンクル」と紹介した。ちなみに江ノ島はご想像どおり「日本のモン・サンミシェル」。女史がきたころの鎌倉にはまだ、まだらに粟や陸稲の畑がのこっていた。粟は米と炊いて水あめの原料なんかにしていたようだ。海草ひろいはいまもつづいている。

 最初の県庁は江戸幕府の運上所、すなわちほぼ現在の場所におかれた、という。幕末におかれた神奈川奉行所を接収して当初「神奈川裁判所」「神奈川府」と称したが、条約上あくまで「開港場は神奈川」と言い張るためなのか、なんとなくそのまま県名にもひきついでしまったようなのだ。



六字名号の板碑
 旧藩領の小田原県(足柄県)、六浦県などが明治初めに統合され、ぎゃくに多摩地区を東京府に割譲したのが日清戦争のころ。物流が中央線にうつったためらしく、県境はけして一定ではなかった。そういえば中世、鎌倉幕府は「関東」とよばれるのがふつうだった。鎌倉大仏、ではなくて「関東大仏」。湊がまちをつなぎ、市境・県境どころか旧国界をもこえた、ずっと広いイメージだったのだ。

 笠のぎ稲荷というところの境内には、珍しい図様の板碑がのこっている。荘厳体の阿弥陀(キリク)の下に六字名号が改めて梵字で彫られ、梵字が変容した変形五輪塔の図柄がその左右にある。鎌倉幕府滅亡前後のもので、元弘合戦にかかわるものだろうか。旧社地は山際で明治に鉄道用地としてけずられたという。


 天皇誕生日にここで雅楽(管弦)を奉納しているのは、北鎌倉で「平安楽舎」を主催している長谷川景光さんのグループ。せまい拝殿に少人数の素朴な演奏がひびき、ふだん埋もれがちな琵琶や楽筝の音色が、ことさらに映える。演奏は「かさのぎ雅楽会」名義のメンバーが中心だが、唱歌では美声も披露。

 長谷川さんは平安朝雅楽の大胆な復元試案でしられている。一曲、その平安雅楽が演奏された。現在の雅楽は、往古より多少くずれて伝わっているそうで、有名な越天楽なんかでも、現行の三種類(平調・盤渉調・黄鐘調)とはメロディもリズムもちがい、だいぶ簡潔になっている。これも一聴の価値あり、だ。


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