トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第63号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.63(2014年10月19日)



No.62
No.64



戦国の城・1



七曲うえの太鼓櫓
 2012年、玉縄築城五百年祭がおこなわれた。大船駅から柏尾川沿いをフラワー・センターに歩いて右折、ちいさなトンネルをくぐると歴代城主をまつる龍宝寺がある。そこでささやかな法要がいとなまれていた。

 城跡は山門向かいの丘陵部一帯で、小坂家旧長屋門のところを適当に入ってゆくと、急な登り口がある。七曲坂といい、大手口のひとつにあたり、お祭りのあいだ頂上の民家の物置が物見やぐらみたいに装われていた。戦後の開発直前、赤星博士らの調査では、じっさいそこが太鼓櫓跡といいつたえられており、ちかくの平場に説明板がある。



龍宝寺にて
 本丸跡は清泉女学院となっていて、ちょうど記念式典とミニ・コンサートがひらかれており、市長のあいさつや学生オーケストラがひろうされた。周囲の土塁・大空堀などはかなり削平されていて、すでに城址としての面影は乏しいが、むやみに立ち入れない周囲の斜面には、「諏訪壇」「鞠蹴場」などちいさな曲輪や堀割などの遺構がまだいくらか、のこっているようだ。

 城は本城のあった城廻をはじめ、玉縄台、長尾台など丘陵部のかなり高い位置を占めており、やはり宅地開発のすすんだ、鎌倉旧市街をめぐる山々が同じようにせりあがってみえる。新田義貞の鎌倉攻めでは、柏尾川をもうすこし下った村岡付近に陣をしいた。戦国の城は、そういう街道沿いの激戦地からはかなりひっこんだ、わかりにくい場所になっているのがわかる。



天神山の宝筺印塔
 フラワー・センターから山崎跨線橋をわたって旧市街方向にみえる天神山は、かつての砦のひとつ。頂上の北野神社にふるい中型の宝筺印塔がのこる。「本州山崎・・・」云々の銘文はよみとりづらいが、応永十二年(1405)の造立。たぶんここもふるくから修羅の巷になってきたのだろう。大船駅ちかくには「首塚」と称するものもあり、それは里見来襲のさいに死んだ忠臣たちの墓として祀られてきた。

 そもそも関東の戦国時代は、足利時代にさかえた鎌倉府の、内部崩壊からはじまっている。鎌倉公方と関東管領との確執、将軍家からの介入、たえまない離合集散、下剋上・・・。そのあたりのくわしい事情は「鎌倉大草紙」「管領九代記」など諸本にまちまちで、藪の中といった印象だ。



太鼓曲輪と諏訪壇
 永享の乱ののち、若い新公方・足利成氏を擁立した管領上杉氏は、収拾策としてみずからも引退し、若い者に政治をゆだねることで、手打ちをはかろうとした。しかし権威の低下は加速、守り役だった山内上杉家の家老・長尾氏や、扇谷上杉の大田氏が、にわかに力をもった。早晩武力衝突に発展、公方成氏が江ノ島ににげる事件もおきた。

 業を煮やした成氏は管領山内憲忠を殺害、これを端緒に京方が追討軍を組織、鎌倉府はほろぶ(享徳の乱1455)。逃亡した成氏は東関東を掌握し、下総古河に新公方府をたてる。これを追って山内上杉は北関東に在陣し、分家の越後上杉と連携、対峙した。南関東には、もともと相模守護の扇谷上杉がのこり、関東は三分割。さらには、撤退した京都方からも、将軍足利義政があらたに新公方(堀越公方)を下そうとするなど、事態は混迷をふかめてゆく。



模型でみる七曲坂と本丸(清泉女学院)
 これを一気に解決しようとしたのが、伝説の英雄・大田道灌(1432-1486)だった。まず、跡目争いをきっかけに自立の動きをみせた長尾景春の反乱(1476〜)を平定し大いに人望を得、江戸・川越・岩槻などの諸城を拠点に関東を席巻。当時まだ無頼漢として忌み嫌われていた足軽をたくみに組織した圧倒的な軍事力を背景に、幕府と公方、関東管領の全面講和(都鄙合体1482)をみちびくなど、卓越した外交能力も発揮。その文才は、宗祇・心敬ら当代一流の文化人からも一目置かれた。
 
 しかし無能の旧主君・扇谷定正の嫉妬により、英雄はある日とつぜん謀殺される。味方を殺せば争いは終る、日本人固有の、そんな愚慮があったらしい。それとひきかえに恐るべき梟雄を、定正はみずから、関東にまねきよせてしまう。戦国大名第一号ともうたわれる、北条早雲(1456?-1519)。



大手口あたりからの眺め
 京方より駿河今川氏の客分として下ってきた伊勢盛時(早雲)は、都の新将軍にとって骨肉の仇にあたる堀越公方を仕末して関東平定の大義をたくみにひきよせ、道灌死後の間隙をついて南関東に介入、両上杉・公方勢力と合戦をはじめる。玉縄城は、扇谷上杉の姻戚で住吉(逗子)・荒井城(油壺)に拠る三浦道寸(義同)を攻めるために築かれ、やがて北条水軍の拠点となった。

 後北条氏三代は、やがて川越夜戦1546などで圧勝し、関東ふかくまで勢力をのばしていった。古河公方晴氏を婿にとり、みずから関東管領をなのるが、千葉の小弓には「真の公方」をなのる義明らが挙兵。国府台でこれを破るも1538、残党の安房里見氏が海から鎌倉に来襲、八幡宮を焼き1526、西御門太平寺から門跡(義明の娘)を奪還1556するなど、戦乱はやまなかった。玉縄北条氏は海を渡り、その里見氏とも戦っている。



龍宝寺での法要
 その後、独自に関東管領をなのる越後の謙信1561、甲斐の武田信玄1569らが本拠地小田原に直接、来襲。北条がわはそのたび和平にみちびき、織田信長には好物の鷹を献上しおひきとり願うなど、巧みにご機嫌をとったが、秀吉の総攻撃によってついに降伏する1590。玉縄北条氏勝は箱根山中の戦いではやくに潰走し、すでに抗戦の余力はなかった。秀吉は鎌倉で北条氏再建の八幡宮に参拝、頼朝の木像と誇らしげに対面したという。

 すでに無主の都になっていた鎌倉は、過去の権威の亡霊がすまう、ある種、象徴的な場所ではあったようだ。早雲は鎌倉占領のはじめ、「枯るる木にまた花の木を植ゑそへて 元の都に成してこそみめ」と抱負をのべ、検地や永楽銭本位制度など、進歩的な経済政策もとった。しかし、武家の都がふたたびよみがえることはなかった。


No.62
No.64