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もちださんの鎌倉リポート No.7(2007年10月29日)



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合戦について・1

 鎌倉の合戦でもっとも地名が詳細に現われるのは、「鎌倉大草紙」のえがく上杉禅秀の乱(1416-7)だろう。その夜、何も知らずに泥酔していた公方持氏(1398-1439)の大倉御所(現在の公方屋敷跡)の周辺をとりかこみ、禅秀は公方の弟・持仲をかついで西御門宝寿院(保寿院・廃寺)に旗をあげた。この寺は高師直を討ったことで知られる上杉能憲のたてた報恩寺(廃寺)のかたわらに、初代公方足利基氏のめのとが建てたものという。第二中学の南西にあったらしい。



深夜の段葛。この日ぼんぼり祭りの名残の明かりがぼうっとならんでいた。
 まず禅秀は、公方府最大の実力者であり政敵である関東管領・山内憲基のすむ佐介舘と公方御所との間の連絡を絶つため、塔の辻(ここでは筋替橋)、若宮小路を固めた。「ところどころ掘り切り、鹿垣を結ひわたし、走櫓をあげ、持盾をつき、家々の幕をうち、一揆の旗をうちたてたり」。

 これに気づいた公方(19)は馬に乗って囲みからの脱出を図る。「岩戸のうへの山路をめぐり、十二所にかかり、小坪をうち出で、前浜を佐介へ入らせ給ふ」。この「岩戸」という地名はちょっとわからないが、状況から胡桃谷より稲荷小路へ抜ける、ハイキングコースの脇道あたりを迂回しながら潜行したと仮定しておく。そして果樹園のあたりから逗子池子をへて、旧小坪坂にぬける螺旋形の大回りをあえてしたようだ。とすると、佐介へも佐介稲荷の裏、長谷大谷戸あたりから入ったのかもしれない。

 公方拉致に失敗した禅秀は、佐介谷攻略に出る。公方らが立てこもった現在の「佐助ガ谷(やつ)」はむかし執権北条経時の邸(御所ノ入)があったところで、鎌倉時代は退位させられた将軍がたびたび幽閉されたところだった。はじめは市役所通りちかく、蓮華寺址や松谷文庫址の碑がたつ比較的低い位置だったらしいが、山内上杉氏の邸は銭洗弁天や佐助稲荷などのある、谷の奥だったようだ。そこにもかつて、北条氏傍流の佐介時盛邸があったそうだが、詳細は発掘を待つほかない。

 籠城方は「佐介の口々」、すなわち「浜おもて法界門」「甘縄口小路(長谷大谷戸)」「薬師堂おもて」「無量寺」「気生坂(化粧坂。ここでは外側)」「扇谷(英勝寺のむかい扇谷上杉舘の地)」などに軍勢をおいた。「浜おもて」はもちろん谷の正面にまちがいない。「薬師堂」はたぶん薬王寺のことで、亀ヶ谷坂切り通し方面をいうのだろう。旧佐助トンネルちかくにごく最近まで遺跡があった無量寺にはむかし、ちいさな切り通しがあったようである。


佐助ヶ谷の最奥、葛原ヶ岡から。はるかにみえる左右ふたつの頂は、前浜を東西に区切る小坪岬と霊鷲山。



米町。かつての繁華街も、いまは地元向けのレトロな商店がつづく。
 対する禅秀の軍は、まず「米町おもて(大町四ッ角)」から「浜の大鳥居」にかけて陣をしいた。遺跡が今も残る巨大な大鳥居は、失脚前、まだ関東管領「犬懸」氏憲だったころの禅秀がかつて華々しく再建し、賞賛をあびたところである。いまの遺跡は後北条氏のころのものらしく、近世の一の鳥居よりも北、閻魔堂橋ちかくにあたる。

 上杉氏は嫡流が高師直に殺されるなど、さまざまな事情から宅(詫)間、山内、犬掛(懸)、扇谷などの家に分裂して公方の寵愛を競い、関東管領職を争っていた。管領は鎌倉府の推薦で正式には室町幕府が任命する。公方の番頭でもあり、お目付け役でもあり、ふとした行き違いから恨まれてしまうこともある。禅秀はとつぜんクビを切られた。権力のきまぐれによって、禅秀だけでなく、多くの武士たちが、それぞれの怨念をいだいていた。

 禅秀らは、町の中心部から佐介谷に対峙した。後年、仙覚ゆかりの妙本寺法華堂(竹御所の墓)で悲惨な最期を遂げる佐竹常元らも、禅秀の軍に参戦していた。ただ、禅秀軍はこれだけではなかった。公方に反感を持つ関東各地の侍たちが、禅秀の縁者・岩松満純にひきいられ、化粧坂の裏側、六本松から武蔵大路を大挙して佐介谷におしよせてきた。

 故・義満に寵愛され、一時は天皇の座をめざしたともいう京の足利義嗣(将軍義持の弟・23)、前公方の弟で甥・持氏の代になって謀反の嫌疑から冷遇されていた満隆、同じく奥州に半独立勢力をきずきつつあった篠川御所・満貞ら、そうそうたるメンバーが禅秀の背後にいたのである。武田、伊達、千葉、常陸大掾、小田ら、幕府や公方府の粛清政策に深い因縁をいだく「不満分子」も続々あつまっていた。ちなみに岩松満純は京の管領家・畠山(足利源氏)の一族だ。


大町踏切から。源氏山の左すそが佐介谷の頂部で真裏に現在の化粧坂が接している。



いまの化粧坂は鎌倉側への下り坂だけ。六本松や葛原岡神社参道あたりは近代の舗装道。
 化粧坂の上は激戦地となり、扇谷上杉氏などが救援にまわったものの重傷を負って死ぬ。うち勝った岩松は佐介舘のかたわらの国清寺に火を放つ。この寺は山内上杉氏の菩提寺だった。火は舘に燃え移り、公方持氏や管領山内憲基は逃亡。極楽寺口から片瀬腰越の浜を、命からがら伊豆方面へにげていった。・・・


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