トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第70号 


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もちださんの鎌倉リポート No.70(2014年10月31日)



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北条名越邸・1


 釈迦堂トンネルは江戸時代にはすでにあったようだ。ただ北側からみるとH字型を呈しており、トンネルのうえにもこちらへ下ってくる切通しの痕跡がある。

 また写真左上には「小切通し」「裏門」と通称する、うえに赤い橋のかかった、別の切通しが覗いている。これはトンネル上の道が二手にわかれ、中央上部にある「展望台」という四阿(あずまや)の廃墟を経由して赤い橋上にいたるものと、裏側の「唐糸やぐら」ふきんから橋下をくぐってこちら側におりてくる別の道(現在封鎖)とを構成する。



唐糸地蔵やぐらからみた小切通し
 【写真1】の立て看板にもみえるように、このトンネルあたりには旧「国際自動車Kk名越山荘」というのがあって、「唐糸やぐら」「日月やぐら」のあるあたりは私有地として、ながく立ち入り禁止になっていた。

 発掘がおこなわれた2008年の段階では現地はかなり荒れており、前述の四阿やモルタルづくりの赤い橋、くちはてたベンチ、さびた説明板などはKK山荘時代に整備された私設ハイキングコースの名残。いちぶのルートではコンクリ敷きの路面が崖方向にかたむいて、すでにくずれかかっていた。いまでは時折、シルバー・ボランティアなどによる見学会もひらかれているようだが、トレンチは埋め戻され、廃墟の一部はもう片付けられているかもしれない。



落石がおきた南面
 トンネル南側には二段の切り岸がほどこされ、銭洗弁天トンネル上に見えるような箱型やぐらが整列していた痕跡がある。室町時代には、あの辺にも地表があったのだろう。南側はかなりせまく、路面の傾斜もきつい。先日、おおきな落石がおきたばかりだ。尾根上を左にむかうと日月やぐら群があり、右にゆくと唐糸やぐら群。その下がKK山荘の跡で敷地周囲にもやぐら群がある。

 トンネルがとおっている尾根をかつて「名越山」といっていて、比企能員が誘殺されたり、実朝将軍が雪見におとづれた北条時政・義時の名越邸があったという。その想定地は南側の大町釈迦堂口、北側の浄明寺釈迦堂ふきんにそれぞれ数段にわたってひろがる、いくつかの平場のどこか、とされてきた。



東京国立博物館にて(※撮影可)
 南側には特にやぐらが多く、北側はなにより幕府に近い。やぐら群はかつてホームレスにあらされていたが、昭和初期、史蹟めぐり会によって「名越山やぐら群」などと総称され、写経石などが調査された。戦後の造成中には、KK山荘のあたりから写真のような青磁のどんぶりも出土。遺跡への期待がたかまった。

 この「名越」という地名はかなり広範囲に分布し、電通の保養所がある山王堂あたりも名越、実相寺のある大町傘町も名越、黄金やぐらの辺、名越切通しの辺も名越。「越し難い」から難越えだとも、要害や街道筋を警護する兵士が当直した「根小屋」からきた地名だともいう。


 KK山荘のあったところは下の地図にみるように、尾根筋南側の主要な平場のうち、もっとも高い位置にあたる。近年開発計画が頓挫し、それにともなう発掘調査がおこなわれた。開発の看板が立ったのは西南隅、地図でいうと「山荘」の「山」の字のあたり。

 山荘跡地からは予期していた主殿のような遺構は出ず、邸宅の中心部か、という推測は外れた。14世紀なかばころの火葬の痕跡から、未知の寺院跡かとの説も。ただ当時の山荘は北条常盤邸跡(たちんだい・レポ40)でも述べたように、いくつもの谷戸や平場を擁する広大なもので、たくさんの曲輪をもつ山城にちかいものだった。城内に寺や鎮守があるのはふつうのことだし、常盤邸跡でも持仏堂とみられる場所がある。



a日月やぐら、b唐糸やぐら、c「南邸」看板
 かたわらの衣張山は「北条政子が真夏に絹を張って、雪見にみたてた」といわれるところ。またの名を「衣掛(きぬかけ)山」、「犬懸山」とも。ふるい伝説では尼が衣をかけた二本の松が一夜にして山になった、とする。ふたつのピークを薄い鞍部がつなぐさまは、衣桁にかけた着物に、たしかに似ている。

 平家物語の広本(増補版)である「源平盛衰記」には、犬懸坂の記述がある。和田義盛の弟・小次郎義茂が杉本の屋敷から三浦に帰るさい、この坂から前浜をうちながめ、すわ合戦、と勘違いして突進してゆく。この坂は現在うしなわれているが、大切岸を越して三浦方面へむかうには、衣張山のだいぶ高いところをとおらなければならないし、そこまでのぼらなくては前浜は一望できない。



いくつかの「やぐら」のひとつ
 この坂があったことによって、付近は交通・防衛上の要衝と化していた。そもそも、衣懸山という名前じたい、三浦氏の本拠・衣笠山城に酷似している。北条名越邸はここを封鎖し三浦氏をけん制するために営まれた、ともいえよう。室町時代にも上杉禅秀の屋敷が、犬懸と釈迦堂の谷戸にまたがってきずかれていたという。

 広大な邸宅には、家臣の宿所、詰め所などさまざまな区画(区=まち)があったはず。区画はやがて散開して城下町、都市街区の一部へと発展していった。釈迦堂の下のほうの「平場」はすでに開発がすすんでいるが、史蹟めぐり会の記録ではいぜんからあったもので、武家屋敷跡、と推定している。山際にはまだいくつかの「やぐら」がのぞいていた。


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