トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第71号 


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もちださんの鎌倉リポート No.71(2014年11月1日)



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北条名越邸・2



唐糸やぐら群
 唐糸やぐら群はKK山荘跡の背後の崖のうえにある。ここから釈迦堂トンネルの上をわたってすぐのところにあるのが日月やぐら群。そこから先はバラ線がはってある。

 北条幕府が滅亡した元弘合戦前後の日付をきざんだ五輪塔がでた、釈迦堂奥やぐら群は、さらに西にある。ただ私有地に当たるらしく、衣張山からみると入定山(大宝山)ふきんはかなり高い位置にまで、厳重にフェンスがはりめぐらされている。ざんねんながら見学はむずかしいようだ。



入定山
 釈迦堂奥やぐら群にはかつて、山王堂や「大御堂のうえ」から細道がかよっていた。東勝寺で自刃した北条高時一門の腹切やぐらなどとともに、東勝寺の後身・宝戒寺の持ちになっており、同寺二世・普川国師惟賢(1289-1378)の入定窟とつたえてきた。

 一門のむくろや遺品をこのあたりに納め、和尚みずからの舎利によって悪霊を封じ込め、亡者の菩提をねがったのだろう。無数の火葬骨のほか、一部火葬されない骨には刀瘡がおおかったとか。それらは火葬にまにあわず、散乱していたものを取り集めたものかもしれない。やぐら群の一部はすでに住宅地になっているが、違法な開発工事のさい、ブルドーザーで敷き均された遺灰もあったという。



日月やぐら群
 釈迦堂奥やぐら9号窟からでた「正慶二二月廿三日」1333の五輪塔は凝灰岩製で、よくみがかれ、白くぬって金泥の痕跡もあった(市史)。やわらかい石の塔は優美だが、風化摩滅しやすく年号が残るのはまれなことだ。大破した30号窟からは「元弘三年五月廿八日」、いわゆる官軍年号で初七日の銘をもつ塔片もでている。

 日月やぐらには鎌倉では唯一、円形の龕がある。よくみると連碑型のレリーフで、かつて瓔珞や蓮華座の痕跡もあったといい、種子月輪のあるべき部分が穿ってある。塔身をくりぬいて法舎利(写経)や全身舎利(遺灰)をおさめる例は全国各地にあるが、蓋はたいてい失われているようだ。円形龕は羨道袖ぶぶんにもあるが刳りが浅く、未完成あるいはフェイクかもしれない。


 納骨穴は壇にならんだ塔片の下にものぞいている。市役所HPで公開している「鎌倉の埋蔵文化財」バックナンバーなどによれば、ちかくの山王堂ふきんから遺品のようなものを焼いたあともみつかっているらしい。山王堂については和泉市久保惣記念美術館蔵「山王霊験記絵巻」巻下に鎌倉名越山王堂の霊験をえがいた部分が知られている。

 借金のかたに下男下女らが売られるはめになり、主従は別れをかなしみ参詣する。山王は彼女らがはなればなれにならずに済むよう、小町の有徳人のおさない娘にとりついて、証文を放棄させる・・・。鎌倉時代、権力に結びついた商人・御内人らがすでに武家貴族を圧倒する場面もでていた。幕府の滅亡は、そうした社会の「ゆがみ」がもたらしたともいえるわけ。



左上に明り取りの窓も見える
 山荘うらの尾根の小高いところには、ふたつみっつのやぐらがつながった、がらんどうの洞窟がある。瑞泉寺座禅窟や、かつて長谷にあった七口やぐらなどのように、山伏集団などが行場にしていた時代があったのかもしれない。

 かたわらに「北条時政南邸」とかかれた、さびついた看板の残骸もあった。ここで頼朝が花見をしたという。南邸、というからには、尾根裏の釈迦堂がわも名越(北)邸と考えられてはいたようだ。さらに東には「アトリエ」となづけられた二つ目の四阿(あずまや)をくぐり、犬走りのような小道のさきは衣張山にのぼっている(現在封鎖)。


 kk山荘敷地(大町六丁目釈迦堂口遺跡)の試掘では、中規模な掘っ立て基礎穴や火葬跡、後世の貧弱な石組み、溝などがでただけだった。掘っ立て基礎、といっても鎌倉の場合、耐震構造としてもちいた可能性があり、岩盤を利用した大型建物跡なども釈迦堂側や東勝寺跡ででているし、立派な石垣をともなう例もある。

 右写真は敷地奥中央あたりのトレンチ(試掘坑)で、奥に凝灰岩をならべた雨落溝、玉石敷きがあり、縁側に敷く束柱用の礎石、母屋のそこそこ太いはしら穴、手前の断面からは版築地業であったことがうかがえる。この建物跡は1300年前後とみられているようだ。


 主殿が周辺のまだどこかにうまっている蓋然性もないわけではない。敷地前部など、まだ調査されていないぶぶんもある。古風な腰高の「楼」であったか、斜地を生かした懸崖造りのものであったか。空想はひろがる。より広範な調査や保全が期待される。

 やぐらの調査では、著名なやぐらや唐糸地蔵窟内の五輪塔が周辺でもっとも早い時期、すなわち鎌倉末期のものらしいことも、あらためて確認された。その他のものは南北朝あたりをピークに15世紀には建造が終る。また、kk山荘下段の竹やぶでも多少、柱穴などがみられたという。


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