トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第72号 


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もちださんの鎌倉リポート No.72(2014年11月3日)



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雅楽について・1



鶴岡八幡宮にて
 「ももしきの大宮びとは暇(いとま)あれや、桜かざして今日も暮らしつ」。貴族といえば毎日が儀式ばかりで、遊んで暮らしていたイメージがある。「遊び」といえば古語では音楽のことであるが、音楽はもともと、礼楽思想といって、服属儀礼と深く結びついていた。つまり、音楽を制するものは天下を制する、という考え方。

 とうぜん頼朝も、朝廷から幕府へ、音楽の秘伝を盗み取ろうとつとめた。都には皇室秘伝の「御神楽」や、世界各地の音楽とされる「舞楽管絃」などがあり、これらはいっぱんに雅楽、と総称される。


 雅楽の秘伝をつたえる者を、楽家という。音楽は王侯貴族がみずからたしなんだこともあり、いくつかの秘伝は天皇をはじめとする高級貴族から直接、そのボディガードをつとめる近衛将監(随身)にフィード‐バックされる。神楽の人長(リーダー)もこうした近習の武官からえらばれる習わしになっていた。

 頼朝が八幡宮のためにまねいた多好方(1130-1211)もそのひとり。鶴岡八幡宮で毎年12月におこなわれる遷宮御鎮座祭のイベントで奉納される御神楽では、この好方にまつわる「阿知女」「弓立」「宮人(復曲・四人舞)」「其駒(人長舞)」が、庭燎(にわび)のみのくらやみの中で披露される。もちろん通常のお神楽ではなくて、とおい昔から宮中にのみつたわった秘伝の【御神楽】だ。



輪榊をもって舞う人長舞
 寄付金団体や鶴岡文庫で催される有料講座向けの招待席が大半を占め、はしっこのほうで聞いていても生音はかすかにききとれるくらい。退屈しのぎに大声で抗議のあくびをする劣悪なマナー客もいて、失笑を禁じえないが、やじうまが集まる有名観光地に、幽玄だの浄闇だのと過大な期待はしないほうがいい。

 唱歌の伴奏は笛、和琴、篳篥、笏拍子。テトラコルドという、オクターブを半分にしたようなごく単純な短い単位(呂、律)でゆったりとうたわれる。現代とは調律もちがい、調性(短調・長調)という近代音楽のルールにのっとったものでもないため、現代人にとってのメロディらしさはない。あるいみ難解な前衛音楽のようにもきこえる。退屈かどうかは、聞く人の耳が問われる、といったていのものだ。


 「続古事談」などによると、祖父・多資忠(1046-1100)は秘曲伝授を拒んだため、親類によって殺害。これをあわれんだ堀河天皇(1179-1107)は、かつて資忠から学んだ「弓立」「宮人」を遺児・近方(1088-1152)らに教え返した。身分の低い近方は清涼殿の床下にこもり、天皇は三年もの間、かれが上手に反復するまで歌い続けてやった、という。堀河天皇は経にあわせてたくみに笛をかなでたほどの名人だった。

 孫・好方は壇ノ浦から三種の神器がもどったさい、この秘曲をうたった。頼朝はその評判をきき及んでいたのだろう。鶴岡の若宮が焼失し現在地に遷座したさい、強引にかれをまねいて「宮人」をうたわせ、楽所に伝授させた1191。


 「古今著聞集」管弦歌舞の部にも頻出するように、父・近方は雅楽の著名な研究家であった。好方もこれをひきつぎ、平清盛が「其駒」の秘説を厳島内侍に伝えさせた、などの噂をききつけては、はるばるまなびにいったという。

 当時は天皇をはじめ堂上貴族が多くの秘伝をこしらえた。鳥羽上皇は石清水御幸でみずから御神楽を吹いた。有名な話では、新羅三郎源義光が戦場まで命がけで追いすがる若い楽人に感服し、笙の秘曲をおしえてやった。後白河法皇にいたっては、うしなわれた神楽や今様の一部を遊女の古老から学びなおしたりしている。宮中行事「五節」などで集められ、やがてお払い箱になった妓女たちが、そうしたところへも秘曲をつたえていたらしい。信西に学んだ白拍子・磯禅師のむすめにあたる静御前がみごとにまうのも、とうぜんのことだったわけ。



神歌抄(※東京国立博物館にて)
 御神楽は古伝の歌や舞、即興の芸(散楽)などをおこなって神を招き、饗応し、ともに楽しんで送り出すというもの。主な歌詞はのこっているが、舞や曲がうしなわれたものもおおい。即興の宴会芸などは、もちろんかげもかたちもないが、そこから数多くの中世芸能の種が生まれ、民間芸能へと、発展していった。いわば日本における芸能史の母胎なのだ。

 「雅楽」とはほんらい国家宗廟の音楽、といういみあいだから、狭義には宮中秘伝の御神楽のみをさす。よくしられる【舞楽管絃】は当初、外むきな行事に華をそえる、外来の宴楽・俗楽のたぐいにすぎなかった。だがいまでは、雅楽といえば御神楽よりも、寺社における公開行事をつうじて広く親しまれてきた後者ばかりをイメージすることが多い。


 雅楽は貴族社会の崩壊とともに衰退し、なんどか再興されてきた。ついには身分のひくい、地下(じげ)末端の楽家が伝承した四天王寺楽所(大阪)までがおもんじられるようになるが、これらとて独自につたわったものではなく、みな堂上系(宮中)のながれの末を汲むもののようだ。
 
 源氏物語などでもしられるように、舞楽管絃もまた王侯貴族による伝承をへて、十分に日本化されたものにはちがいない。しかし天竺やペルシャなど、エキゾチックな印象を強調してきたためなのか、いつしか仏教音楽と混同され、天上の調べだとか、菩薩の歌舞などとする神学的誤解も、生んでいった。


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