トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第75号 


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もちださんの鎌倉リポート No.75(2014年11月8日)



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塚について・1


 六地蔵から旧銀行支店の建物のところを海に向かってゆくと、駅の踏み切りを越えたあたりに和田塚がある。すでに塚という感じではないが、かつてちいさな古墳があったらしい。

 ここは中世に「浜の悲田院」があった場所と推定され、無縁の病者・非人らが、路傍によこたわる無縁仏をここのふるい塚に集めては埋めた。それが和田合戦1213の戦死者だ、ということから和田塚とよばれるようになった。加持した土をかけ、「光明真言」をひとくだり、よめば成仏するとされた。


 現在でも市中に散在する墓石をつみあげ、コンクリで乱暴に固めた無縁塚はおおいが、そのルーツといっていいだろう。もとの古塚というのは5世紀前後、畿内を中心としてほぼ全国的につくられた、【前方後円墳】を主体とする一様式で、無縁塚になった時期よりずっとふるいものだ。

 独特のかたちは常世の国、つまり卑弥呼が凝った神仙道の、海に浮かぶ蓬莱山をあらわす「壷」をかたどったものらしい。秦漢時代にはやった王陵の封土が日本で独自に進化し、爆発的にひろまったもののようだ。逗子の桜山にややおおきなものがあるが、鎌倉のはちいさな、円墳群とかんがえられている。


 古墳は部曲という奴隷兵士につくらせたらしいので、和田塚の豪族(鎌倉別?)はさほど大きな軍団をもってはいなかった。ただ土師部のつくる埴輪は、ならべられていた。

 古墳豪族はやがて国造、郡司、健児(こんでい)などをへて、ほとんどが中世武士にとって替わられる。鎌倉郡衙は御成小学校あたりにあったらしく、地方税である「租」をおさめる正倉が並んでいたはず。 

 荘園・御厨などが蚕食し、いったん公領はモザイク状になったため、古代の郡境は近世以降のものとはことなり、はっきりしない部分もある。国衙領はかたちのうえでは中世までのこっていたが、律令官衙ははやくに衰退、行政機能は郷司などの私邸(館)にうつり、郡としては有名無実となっていったようだ。



薬王寺六ツ塚
 さて、中世の塚といえば「餓鬼の草紙」にえがかれたような小さな墓がふつうで、木製の塔婆などが朽ち果ててしまえば、もはやどれがだれの墓かはわからなくなってしまう。摂関家代々の木幡の墓(京都)、十陵五墓といわれた天皇一族の墓でさえどこにあるのか、すぐに忘れられてしまったのだから、武士の墓なんかなおさらだ。

 横浜市旭区鶴ヶ峰にある、畠山重忠134騎の六ツ塚なんかも、もはや50cmくらいの土盛りにすぎない。「薬王寺」というバス停からすぐのところに寺があり庭に6つのでっぱりがある。コンクリートの本堂左陣に、位牌。それだけ。



それぞれ四角に囲われている
 重忠(42)は同族・榛ヶ谷氏の拠る二俣川でおそわれ、帷子川をこえた、このあたりに後退したところを愛甲三郎の矢にたおれた1205。塚は不規則に、見ようによっては北斗七星のような配列。付近には他にも首塚、駕籠塚、ごはん塚などがつたわる。

 かつて川に鶴が遊んだことから鶴ヶ峰というそうで、尾根筋ではあるが峰というほどのものではない。鎌倉のほぼ真北、ではあるのだが、肝心の鎌倉街道はいまはなく、その道筋にも諸説あって定かでない。中世の道は公有地であった尾根筋に沿っていたらしく、住宅開発などであらかた切り崩されてしまったのだろう。



昭和50年ころ(?)
 そういえば、いぜんこのあたり出身のタレント、TOKIOのメンバーが、自転車「3000コギで」鎌倉の海をめざす、というテレビ番組があった。スタートの生田スタジオは稲毛入道の古城があった小田急・向ヶ丘遊園近辺にちかい。大分苦戦したのも当然で、いかんせんどれだけ土地勘があっても、まっすぐな道なんかもうないのだ。

 昭和のむかし、写真のような木造の橋がかかっていた切通しのうえが「鎌倉古道」といっていて、鶴ヶ峰と上杉憲直の榎下城跡までの尾根筋をむすんでいた。いまはないが、かつて馬頭観音の石碑がたっていたあたり、鍵の手にまがる不自然な段差があって、これは名越の虎口「おおほうとう」などににた構造だった。開発後は別ルートがいくつか考案されている。


 頼朝上洛のさい、重忠の隊列をきらびやかに飾った随兵には多くの綴(都筑)党の武士の名がみえる。二俣川あたりはちょうど都筑の郡域にあたり、勢力圏ではあったはず。ただ、いとこ・稲毛三郎入道重成は町田市小山田から川崎の稲毛枡形に栄転しており、二俣川あたりは榛谷御厨とよばれ、重成の弟・四郎重朝がよっていた。かれらが重忠の退路を絶っていた、とすれば稲毛一族が襲撃の首謀者とされるのも無理はない。

 その重成兄弟も口封じに鎌倉経師ヶ谷で殺され、枡形の広福寺には重成の墓と称するものがつたえられている。重忠の墓は本拠・畠山にもあり、息子・重保の墓とされるのが由比ガ浜、一の鳥居近くの石塔だが、いずれも実際の墓ではないようだ。


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