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もちださんの鎌倉リポート No.77(2014年11月9日)



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綴党について・1



長津田・大林寺
 和田小次郎と前浜で死闘を演じ1180、畠山重忠の随兵として頼朝入洛の記録1195などにも見える「都筑・鴨志田・石河・河勾・中山・江田・奈良・勝田・高田・猿渡」などの苗字は、いわゆる綴党といわれる人々だ(諸説あり)。

 相模国鎌倉郡のとなりにありながら武蔵国都筑郡(横浜市北部)には有力武士はなく、系図不明の中小の氏族からなる連合体にとどまった。秩父平氏の総領・重忠のいとこ、小山田重成が現在の町田市郊外から稲毛領(川崎市あたり)をあたえられ、その弟が榛ヶ谷(二俣川周辺)などに進出しているが、自余はほぼ重忠の配下にあったようだ。



宝帒寺(凝灰岩製)・本柳寺
 重忠の死後、国務の実権は北条氏にうばわれる。ただ旧郡内には早い段階から、秩父産の緑泥片岩をもちいた武蔵型板碑が流行した。綴党にはなお秩父平氏の縁者が多かったろうし、重忠と運命をともにした134騎のなかにも、少なくなかったはず。唯一、出自がしられる中山氏などはもとより河崎基家の末、秩父平氏だったらしい。

 この地域はふかい谷戸と武蔵野の小高い丘が入り組んでいて地形は複雑、年貢としては米よりも布づくりなどがさかんだったという。あざみ野あたりには石河牧があったとされ、立野牧(未詳)などとともに勅旨牧として馬も献納していた。都筑平太経家が頼朝の御前で荒れ狂う悪馬をみごとにのりこなしたことは「古今著聞集」巻六にみえ、大御堂供養にもその名が記されている1185。



「弘安四年」の板碑と銘文
 都筑経景は鎌倉に住み、「源氏」「万葉」などの文学を愛した頼経将軍(1246追放)の近習(小侍所)として永福寺の和歌会に参加1232。三善氏のような幕閣のインテリや後藤、東(とう)氏のような名だたる歌人武士にまじっているから、学識もあったようだ。都筑九郎は頼嗣将軍(1252追放)の護送にもみずから従った。残念ながら在地の記録に乏しく、郡内のどこに本拠があったか、さえ未詳だ。

 鴨志田の板碑1242については以前のべた(レポ48)。その前号(47)ふれた十日市場・弘安の板碑1281というのは、発見地ちかくの阿弥陀堂墓地にある、いっけん「乾?四年二月日」ともよめそうな板碑と、どうやら同一のものらしい。ちかくの北門・泣き坂などにも、板碑がある。おばけ踏切の、音ばかりが間近にきこえてくる林のつきあたり。



金蔵寺(下部の梵字は光明真言)
 JR横浜線十日市場駅ちかくの宝帒寺、鴨居駅の本柳寺などにある鎌倉・南北朝期の五輪塔【写真2】は、崖窟(かんかな)などとよばれた転用やぐらにあったもので、このへんに数多く分布する奈良時代の横穴墓から板碑などとともに出土した。鎌倉道がかよい、そこで切腹した武士のもの、といわれていたそうだ。

 近年すっかりあたらしくなった長津田の大林寺のわき、新道沿いの巨大な銅製地蔵祠のかたすみには嘉元の板碑1303【写真1】がたつ。もとは駅西の東急車輛庫踏切ふきんにあった東光廃寺からうつされたらしく、かすかに無量寿経の偈をきざみ、梵字は東神奈川・笠のぎ神社などとおなじ三弁宝珠つき荘厳体のキリーク。桜がうつくしい日吉本町(市営地下鉄)の金蔵寺には、建武元年の板碑などがならぶ。



福王寺
 このへんからは稲毛領に入り、東急田園都市線鷺沼駅南口を少し下ったところにある福王寺にも、建武四年銘の板碑が多数の断片とともにまつってある。建武年のは風化も少なく、おそらく埋まっていたのだろう。傾向として郡域周縁のものはややあたらしい。

 中世武士の多くが若くして入道し、自由な立場で権力を行使したが、それには仏事をおこない「徳」をしめす必要があった。逆修(生前葬)の利益は追善の7倍(七分全得)。初七日から十三回忌までの供養を、数ヶ月にわたっておこなうという。施行などの法事自体が目的であったため、結願としてたてた板碑などは、崇拝対象というよりしぜん記念碑あつかいになったようだ。無縁になった場合はもちろん、墓直しのさいに裏山などへまとめて廃棄されることも多かった。



柿の木台・十日市場(1347)
 板碑片にはもともと段ボール紙のように薄くちいさなものも多く、古民家の屋敷墓や無縁仏の片隅などに無造作に刺しならべてあったりする。武蔵型板碑にもちいられた秩父産の緑泥片岩(青石)は変成岩の一種で、高圧低温下に押しつぶされ、不十分に固まったもの。質の悪いものはミルフィーユ状にうすく劈開剥離してしまうので、銘文はよみにくく風化で失われたものも数知れずあったはず。「福徳」という私年号の書かれたものもあったらしいが、みつからなかった。

 権威を象徴する板碑は、後期になると在地領主層から庶民集団(結衆)へと造立の主体がうつり、やがて末期の板碑に近世様式の石仏・石塔がとってかわる。末期の板碑には粗末なものも多いが、すでに庚申塔などの原型が示されており、勃興する新時代への過渡期をしめす、貴重な資料。



蝶型蓮座など、かなり簡略化したものも(福王寺)
 鎌倉にある板碑には青石以外の素材をもちいたものもある。代表作ともいえる五所神社の板碑1262や光明寺のものなどは産地不明の粘板岩ないし黒雲母片岩でできている。長谷寺のもの1308は硬質の安山岩をもちいていて、鏨(たがね)で丁寧に打った関西風の特異な形態。光照寺のもの1325などは角柱状で奥州型らしい。ただ、ふしぎと鎌倉が板碑文化をリードした形跡はない。

 鎌倉にもかつては、いまより多くの板碑がたっていたという。開発の邪魔となって、あるいは好事家の手にわたり、場所を失い散逸。某寺につたわる板碑は、もともと都筑某所で石橋の石材となっていたものをうつした、といわれる。


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