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もちださんの鎌倉リポート No.78(2014年11月10日)



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綴党について・2



無量寺板碑(元亨、暦応など)
 叡尊の「関東往還記」にでてくる佐介時広室(北条資時女)という女性がひらいた佐江戸・無量寺は、JR鴨居駅・ららぽーと横浜のちかく。金沢文庫の文書にもみえ、伝法には称名寺長老・審海らもかかわっているから、もとはかなりの正統派寺院だったらしいが、猿渡氏のものか、というぼろぼろの五輪塔がひとつ、のこるのみだ。

 荏田の真福寺には鎌倉からうつされたともいう清涼寺式釈迦があり、恩田の薬師堂には手足のちっちゃい院派の優美な仏像、また廃万年寺の梵鐘(1325)なんかもあるが、こちらは文献上の資料がない。中世武士たちはほろび、いったん廃寺同然となって、転封されてきた近世の新興領主や庶民のための寺、として生まれかわって久しいためだ。



荏田・真福寺の釈迦堂
 都筑の郡衙跡は郡の北方、田園都市線・江田駅南の長者ヶ原遺跡とされる。「武蔵国六ノ宮・杉山神社」の本社(未確定)候補地は郡域中央に分布。古墳群は市ヶ尾(市郷)あたり、勝田・大塚をはじめとする縄文・弥生遺跡もすくなくない。

 平安すえ、秩父(河崎)基家は小机六郎とも号したらしい。小机鳥山郷は畠山の滅亡後、幕府の肝いりで佐々木泰綱が開拓している1239。泰綱の母は川崎尼十阿といい、その父・都筑党の中山為重は基家のまご、この中山も小机郷の一部だった。一族は和田合戦で衰退、連座をまぬかれた余党は鎌倉にすみ、幕府につかえた。鳥山郷には中巌円月(レポ49)も幼時にすんでいたと、自伝にみえる。円月は土屋氏の出だが、先祖は佐々木氏とも血縁があった。



お滝さま
 戦国最大の学問僧・印融(1435-1519)は、JR中山駅からバスでちょっといった「三保団地入り口」ちかくでうまれた。ここは永享の乱の上杉憲直居城・榎下城址のもよりだ。修行の滝跡はのこっていて、産湯の井戸があった家は最近アパートに変わった。

 佐々木高綱が頼朝の命でひらいたといわれる小机・鳥山三会寺で密教秘法を伝授され、高野山では無量光院院主に出世。帰郷して三会寺7世となり関東一円に布教、「空海の再来」とうたわれた。金沢八景の龍華寺は弟子に付託・再興させたもので、田谷定泉寺ものち三会寺和尚の隠居寺となって復興した。柳田國男も魅せられた中世の奇書「塵袋」(重要文化財)をはじめとする膨大な書物をのこし、榎下観護寺でなくなった(レポ47)。牛に乗って読書する、ふしぎな肖像がのこる。



三会寺にて
 三会寺は広い境内の一部が幼稚園になっていて、「小机城跡まつり」のパレードの出発点としてにぎわう(レポ64)。いまもなんとなく学問寺の雰囲気をつたえており、見所といえば平成の大仏師・松本明慶さんの巨大な彫刻群。

 35世・釈興然というひとはパーリ語をまなび上座部(南伝)仏教を日本につたえた。かの鈴木大拙(東慶寺)や河口慧海(チベット紀行)もここに寄寓し、教えを受けたのだという。パーリ仏教の研究者・平等通照さんの祖父は雲居玄導といって、母に死なれた岡倉天心を京急神奈川新町にあった長延寺にひきとり、学ばせた。いまその寺は「産湯井戸」のちかくに移転再興されたが、若い和尚の名ばかりが玄道さん。



榎下城址の二重土塁あたり
 戦災で焼け残ったふるい山門は榎下城址(旧城寺)に譲渡された。大手の土塁は丈たかく、埋められた内堀の一部にもまだわずかに後北条氏特有の二重土塁の痕跡が残っている。城は戦国時代にももちいられていたのだろう。

 そのころの城主は不明で伝説の「山田右京進」もなぞの人、家老(?)芦垣浄泉というものの子孫が、西ノ前砦の址とされる榎下踏切かいわいにまだいらっしゃるという。その上手は十日市場の地名のゆらいとなった鎌倉古道の「市場」だったとされ、前項・弘安の板碑がある。河の手には白山祠・長吏曲輪とつたえる場所も。榎下観護寺はそのさらに下手の川沿い、橋場に当たる。長吏(非人頭)は各種職人をひきいた者で、中世村落にはすでに都市機能もあったようだ。



かんかな下から長吏曲輪方面
 鎌倉時代の辞書随筆「塵袋」(東京国立博物館)は、穢多のいわれを餌取と説いたくだりがよく知られている。印融ののこした自他内外の典籍の中でとりわけ有名なのが、この現存唯一の写本。

 穢れを忌む神事は平安・鎌倉・室町と年を追うごとに煩わしくなり、天皇などはさっさと退位して有縁の世界、不自由な潔斎生活からおさらばした。しかし今度はゆたかになった庶民が宗教生活に狂うようになり、氏神を祭り、朝夕かかさず水垢離をし、講をたてて念仏を唱え、里修法にいれあげ修行・巡礼の旅に出るものさえ多発した。阿弥陀堂、六十六部、出羽三山碑、富士塚など、その手の痕跡はこの界隈にも無数にある。



北門(ぼっかど)板碑
 旧都筑郡域はかつて「横浜のチベット」とよばれ、戦後はニュータウン開発などで急速に一変した。でもまだ田舎はのこっていて、この夏もホログラムのように飛び回る玉虫をみかけた。戦後まもない時期、うしなわれゆく遺跡に光をあてたのは鶴見で料亭を経営していた在野の学者・戸倉英太郎さん。「都筑の丘に拾ふ」をはじめとする非売品・ガリ版刷りの叢書は、貴重書あつかいになってはいるが、コピー製本なら横浜市内の図書館で借りられる。
 
 ガリ版といえば鎌倉中央図書館2Fにも「鎌倉史蹟めぐり会記録」などの貴重な資料がある(復刻あり)。学術論文とはひとあじちがった、地味な郷土資料もなかなか、すてたものではない。教科書に載らない中世は、案外いたるところに残っている。


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