トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第79号 


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もちださんの鎌倉リポート No.79(2014年11月11日)



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鐘について・1



上瀬谷・妙光寺鐘
 鎌倉時代の梵鐘は鎌倉市内に4つある。常楽寺(1248)、建長寺(物部重光1255)、長谷寺(同季重1264)、円覚寺(同国光1301)等の鐘で、記録にしか伝わらないものもおおい。

 流失したものでは、麻布阿弥陀寺に法泉寺の旧鐘(物部道光1330)、伊豆韮山本立寺に東慶寺旧鐘(1332)がある。清拙禅師や覚海円成(高時の母)ゆかりのものだが、円成尼は幕府滅亡後、伊豆に隠棲したので自分でもっていったのかもしれない。



座間・星谷寺鐘
 鋳物師大工の物部氏は鎌倉大仏鋳造を期に、上方から移り住んだとされる。物部といえば守屋とか尾輿が有名な古代の品部(ともべ)。「物部(モノノフ)の八十氏」といわれるほど党類は多く、鋳物を専門とする家もあったのだろう。氏神の石上神宮(奈良県)はかつての武器庫でもあり、近辺に鏡作神社など鋳物にかんする史蹟もおおい。

 品部というのは血族ではなくて組織名といった方がよく、「宿禰」とか「大連(おおむらじ)」とかいう高い姓(骨品・かばね)には王族豪族がつき、とくに「かばね」をつけないヒラの部民や、職能をもった官奴(非人・職貢奴隷)などを数多くひきいた。古代には「穢人今須利」といった韓鋳物師もいたらしい。「今(キム)」は現在ものこる韓国の姓で、「穢」というのはふつう「さんずい」で書くところの、新羅周辺の民族名だろう。



星谷寺
 おもな古鐘は当麻寺(白鳳時代)、筑紫廃天台寺(糟屋評造舂米連広国698・花園妙心寺蔵)、東大寺(高市真国752?)、神護寺(志我部海継875)など、畿内や九州でつくられたものが知られる。

 関東では八田知家が常陸極楽寺におさめた鐘(1206土浦市等覚寺蔵)や、佐々木信綱が小田急座間駅近くの「星の谷観音」星谷寺におさめた鐘(源吉国1227)がもっともふるい。星谷寺のは佐々木氏が客分になっていた渋谷庄とのゆかりを示す。境内のまんなかに大切に保存されているが、鋳肌はかなり未熟でひびも入っており、撞座もひとつしかないなど素人感むきだしのものだ。



妙光寺
 小田急鶴間駅の東、境川をわたり東名をくぐったところにある旧鎌倉郡・上瀬谷の妙光寺にあるのは廃万年寺の鐘(物部守光1325)。銘文によれば「大檀那菩薩戒弟子廣鑑」、もとは「武州恩田霊鷲山松柏萬年禅寺」というところにあった。

 万年禅寺の記録はまったくない。「広鑑」がだれなのかもわからない。「日蓮宗の徒が賭け碁の勝負でまきあげて担いできた」。このような武勇伝は新井妙法の類話(レポ61)など無数にあり、どこまで真実かわからないが、博打のさなか、布施をつのる托鉢僧に「カネがほしけりゃ鐘楼に吊ってある」と煙に巻いたつもりが、ほんとうに持っていってしまった、というパターンは、あのマンガ日本昔ばなしにもとりあげられた。追刻の銘文からすると「質流れのものを近くの城主が買って寄進した」というのが本当らしい。



恩田・万年寺谷戸
 東急こどもの国線・恩田駅そばの徳恩寺の観音ご詠歌はなぜか「万年寺」とうたっていて、江戸時代にはもはや同寺観音堂になっていたようだ。徳恩寺は称名寺僧による建武の草創だから、東の尾根むこうにあった万年禅寺は没落まえの執権・北条氏系だったのかもしれない。鐘の伝来には寺運の盛衰がなお大きくかかわっていた。

 中世の鐘のなかには、売り鐘のほか戦国時代に陣鐘となったり、鉄砲玉にされたりしたものもある。寿福寺の旧鐘は宋、報恩寺のは高麗鐘であったらしい。高時がつくらせた浄智寺初代の鐘(1332)は各地を転々としながら廃仏のころまであり、拓本までのこるだけに、失われたのは惜しい。川崎にあった佐々木信綱の妻子による鐘は、里見氏に鋳潰されてしまった。



中依知・浅間神社鐘
 公方府時代のものでは、補陀洛寺の鐘(物部光連1350)が東慶寺に、長寿寺の鐘(1397)が円覚寺にうつっている。胡桃谷大楽寺の鐘(清原宗広1350)は厚木市中依知の浅間神社にあり、「大檀那行珍」は二階堂行朝(?-1353)。鎌倉の問注所、のち奥州南朝、足利幕府などにつかえた。

 三浦走水の円照寺につたわる半鐘(1330銘)は文政年中、網にかかって発見。経とともに海に沈め「竜宮城」に奉納した、とされる。実朝将軍がたびたび写経を沈めた記録もあり、こんなオカルトふうな行法も、中世にはやっていた。沈鐘伝説は中世の古鐘にまつわることが多く、竜頭部分を日本では龍神、大蛇と考えてきたためらしい。



浅間神社
 浅間神社は「スーパーえち」のド派手な看板をめじるしに、相模川の河岸段丘をなかばくだった中学校のうしろ。埃だらけの鐘にはウスバカゲロウがじっととまっていた。この鐘もその昔、雨乞い行事として相模川に漬けられたことがあったのだとか。摩滅した銘文はよみにくく、目が慣れるのにかなり時間が要るが、「大楽寺」の文字は右区のあたまにある。
 
 大楽寺は永享の乱で焼け、覚園寺境内にうつされた。大山不動を鋳た願行上人ゆかりの寺とされるが、鐘銘によれば沙門公珍(?-1352)というものが「文保元年」1317に創建。浄円房公珍は覚園寺開山・智海心慧と同門だった。鎌倉公方府滅亡後、しばらくして同神社の宝器となったことが追刻されている1459。


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