トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第8号 


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もちださんの鎌倉リポート No.8(2007年10月30日)



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合戦について・2



海蔵寺。戦死した扇谷氏定(享年43)がかつて公方氏満の命で中興をはじめ(1394)、会下寺(学問寺)にかぞえられた。
 さて、公方の運命やいかに、というところだが、乱世ではたった一度の勝敗にはあまり意味がない。禅秀は今川氏ら京方の援兵に破れ、雪ノ下の坊であっけなく自殺した。一味の供養塔は藤沢道場とよばれた遊行寺(清浄光寺)にある。・・・だが、この公方もやがて味方であった山内憲基の猶子(養子)・憲実に討たれて死ぬのである。犬懸流をほろぼした公方持氏は、こんどは一色氏や宅間流を寵愛し山内家を圧迫したからだ。これを永享の乱(1438-9)という。

 山内憲実(1410-66)は、禅秀の叔父・犬懸朝房のあとをついだ越後上杉氏の出身。同名異人や養子関係が複雑で系図には特別な注意が必要だが、じっさいの血の上では養父憲基とはいとこ(ないしハトコ)にあたるらしい。ただ、よそ者であったためか室町幕府の命を重んじ、独立心のつよい公方へは批判的だったという。生前、持氏は禅秀の乱に加担したものへの報復に病的な執念をかたむけたほか、八幡宮に「血書の願文」をのこし、なにやら怨敵退散をいのっていたことが知られている。だが、まだただちに関東独立を宣言したり、京の将軍を狙うという段階ではなかったはずだ。

 この永亨の乱で公方方につき敗死した宅間上杉憲直の榎下城跡が、横浜市にお寺として残っている。城郭資料としてはよくしられたもので、台地の突端を土塁と空堀で区切った素朴な城だが、すでに中世城館の域を脱しているといわれる。戦国時代はすぐそこまで迫っていた。

 さて、持氏をころした山内憲実は、代わりの公方がいないとの理由で自身も責任を問われ、職を棄ててにげだしてしまう。武士たちはやっとのことで持氏の遺子・成氏を探し出し、10年後これをふたたび「公方」の座につけた。しかし、・・・この公方も憎悪の連鎖を絶てず、憲実の息子・関東管領山内憲忠をとつぜん「親の仇」として西御門舘に攻め殺し・・・ばかばかしい話だが、これを都に訴えられたことでついに鎌倉公方府は室町方にほろぼされ(1455)、とわの廃墟と化してしまう。


参考・憲直の城跡、旧城寺(横浜市)。門の左右、林の部分が土塁、その手前が空堀。



山内憲基の祖父・憲方(道合)の墓。その兄・憲春はときの公方氏満の「反義満クーデター」を諌めるため1379、突然切腹したとされている(大草紙)。
 もともと鎌倉公方府は、室町に幕府が定着するまで足利方の仮の拠点であり、成良親王下向にともない足利直義によって府の前身がおかれた1333年から百二十三年の歴史を歩んでいる。将軍義詮を輩出、その弟・基氏以降、氏満、満兼と代々鎌倉に止住したので「鎌倉公方」とよばれた。あらゆる権威が失われたこの時代、室町への謀反や自立がいくども試みられた。義堂周信ら、多くの高僧・文化人が招かれ、武家の都としての鎌倉の後半生がきずかれてきた。

 かの足利学校は持氏をころした憲実が、主君である足利家をあくまで重んじているというエクスキューズ(いいわけ)として再興したもので、貴重書の惜しげもない納入は永享の乱の年からはじまっている。鎌倉には金沢文庫いがいにも多くの文庫があり、中国でも散逸してしまった貴重な舶来の文献にあふれていたことがうかがえる。疎開した文庫がバテレン時代のヨーロッパにまで名をとどろかせいてたのである。公方時代を鎌倉文化の衰退期と位置付けるのはただしくない。

 ただ、室町期の鎌倉をふりかえる人は稀だ。追放された公方(以後、古河公方とよぶ)らはけっきょく関東各地を彷徨し、有名無実の戦国小名として江戸をむかえる。そのあいだ、大田道灌(扇谷上杉の家老1432-86)やら上杉謙信(越後上杉の家宰から山内家の猶子になった)らがからんでくるが、関東統一には至らなかった。なお、関東管領職をゆずられた謙信は諸戦のなかで一時的に鎌倉を占拠し、八幡宮にも詣でている。

 鎌倉公方府を完膚なきまでに破壊した室町方の今川氏は、室町が下した無能な新公方(堀越公方)に見切りをつけ、みずからが取り立てた後北条氏を後援して威を振るう。が、上杉謙信に対抗し将軍義輝に拝謁するための上洛に失敗した義元の代で、滑稽な滅亡となる。かれらの栄華も戦争も、最終的に負けたのだから不毛であり、結果論から見れば進歩の流れに見放された、まるで意味のないもののように映る。


参考・足利学校(栃木県)。上杉憲実が再興した。山内家もすでに分国・上野(群馬県)などに土着の本拠をもっていた。



激戦地だった源氏山公園から。ふもとの英勝寺は鎌倉府が滅亡した時点での道灌の邸宅跡地であるという。
 わたしたちは「最初からわかっていたんだ」という顔でしか過去を見ないものだ。だが、よのなかには勝組だけが生きていたわけではない。ある意味、歴史の意味付けなどというものは、当たり馬券だけをみせびらかそうという現代人の陳腐で姑息な自己表現にすぎず、まるで実体のない、白昼夢のようなものなのかもしれない。


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